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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

新聞が果たすべき役割

【オリンピック・パラリンピックのレガシー】

2021.02.24

 オリンピックにとって、メディアの働きは絶対に欠かせないものだ。大会の結果を世界中に知らせるためにも、オリンピック運動の意義をあらゆる地域に広めていくためにも、メディアの力が必須なのは言うまでもない。そして、近代オリンピックがスタートを切って以来、20世紀の後半まで、その役割を一身に背負っていたのが新聞である。

1912年ストックホルム大会の入場行進。旗手は三島彌彦

1912年ストックホルム大会の入場行進。旗手は三島彌彦

 日本ではどうだったか。新聞はオリンピックにどのようにかかわってきたのか、大会初参加の黎明期から振り返ってみるとしよう。

 日本がオリンピックに初めて参加したのは第5回、1912年のストックホルム大会である。既に4回の開催をへていたとはいえ、日本では、オリンピックといってもほとんど知られていなかったようだ。新聞の表記が「國際オリンピツク競技」「國際オリンピツク大會」「オリンピヤ競技會」などとまちまちだったのもその状況を示している。前年に行われた予選会で、金栗四三のマラソンの記録が「世界のレコードを破る事實に二十七分」と報じられているのは、25マイルでの記録を、26マイル強で実施された前回オリンピック大会と比較したから。選手も報道する側も、国際的な情報に接する機会など、まるでなかったのだろう。すべてについて知識に乏しかったのがこの時代だった。

 陸上短距離の三島彌彦とマラソンの金栗四三の二人が参加したストックホルム大会。両選手が世界の壁にあっけなくはね返されたのを伝える記事には「三島選手先ず倒れ金栗選手も亦遺憾世界的にブツ倒れたり兩選手の無念さ眞に思ひやるだに悲憤の極み」などとある。競技する側もそれを報道する側も、ほとんどゼロからのスタートだったのが、古色蒼然たる文章から伝わってくるようだ。

 次に日本が参加した1920年のアントワープ大会、その次の1924年パリ大会でも、日本の新聞報道はさほど変わっていない。アントワープではテニスの熊谷一彌がシングルスで日本初の銀メダルを得ており、新聞も当時としてはかなり大きな扱いで報じているが、内容としては「妙技を揮ひて樂樂と之れを敗れり」「敵も味方も其入神の技に恍惚として」などという記述にとどまっており、競技の詳しい内容や競技者の思いなどを伝えるには至っていない。

 ただ、パリ大会の開会式を報じる記事には「人種民族展覧會の状態にありながらスポーツ其物に統一され犯し難き嚴粛な雰囲氣を醸成し選手も数萬の観覧者も遺憾なく其気分に浸ることの出來たのは本大會劈頭の大成功と云ふべきである」の記述も。取材する側も、オリンピック開催の意義をしだいに理解するようになってきているのをうかがわせる一節だ。

 新聞によるオリンピック報道の歴史を振り返ってみると、まず最初の節目になったのは1928年のアムステルダム大会のようだ。当時の紙面を見てみると、ここから各紙が力を入れ始めたのがわかる。陸上・三段跳びで織田幹雄が日本初の金メダルを手にした大会。日本選手の出場が増え、活躍が目覚ましかったのもあるが、オリンピックに対する国民の関心が高まってきたのをそのまま反映してもいたに違いない。

 記事の内容はメダル獲得シーンや表彰式の情景描写がほとんどだが、陸上史に残る出来事として知られる女子800mの是非論について検討が加えられているのは興味深い。限られた紙面の中で、海外選手の世界新記録が大きく扱われているのも注目に値する。オリンピック報道のあり方が新聞界で意識され始めたことの表れだろう。

1932年ロサンゼルス大会の馬術障害飛越で金メダルを獲得した西竹一

1932年ロサンゼルス大会の馬術障害飛越で金メダルを獲得した西竹一

 水泳陣のメダル量産や、バロン西(西竹一)による馬術の金メダル獲得など、日本勢の大活躍にわいた1932年のロサンゼルス大会。各紙はさらに紙面を大きく割き、結果を詳報した。東京朝日新聞は、大会開幕の二週間後に、開会式の写真を載せた号外を発行している。記事によれば、これらの写真はロサンゼルスから日米の汽船でリレーされ、最後は外房沖で飛行機による吊り上げを行うという「スピードの限を盡す」方式によって届けられた。

 一方、東京日日新聞は、開会式当日、スタジアム上空に「勝て!日本」と船体に書かれた飛行船や、長旗を引いた軽気球を飛ばしたと記事にある。「オリンピック大好き」の国民性はこのあたりから垣間見えるようで、その人気を受けたメディアの過熱もさっそく始まっていたのである。

 世界のスポーツ大国の一角にのし上がった日本。1936年のベルリン大会でも新聞報道は活発だった。結局は幻に終わった1940年大会東京招致もオリンピック好きの血をわかせた。明治期から、すべての面で「欧米に追いつき追い越せ」を合言葉にしてきた日本社会。「日本精神發揚せよ」「祖國日本の誇を守る」などの見出しからもわかるように、オリンピック報道にも国威発揚の意識が色濃くにじんでいた時代だ。

 その後、日本は敗戦国となり、16年にわたってオリンピック大会から離れざるを得なかった。が、戦前に早くも生まれていた国民のオリンピック熱は、長い空白を超えて持続していたようだ。日本が復帰を果たした1952年のヘルシンキ大会。一般紙各紙は1面トップで開幕を報じ、社会面なども使って競技結果を伝えた。陸上・長距離の三冠に輝いたチェコスロバキアのエミール・ザトペックの詳しい紹介記事があったり、選手の家族の様子を伝えたりという多様な紙面展開もあり、その後の大々的なオリンピック報道につながる状況がこの時点でもうかがえる。

 1956年のメルボルン、1960年のローマと、新聞報道はさらに活発になっていった。このあたりからは、一般紙に加え、スポーツ紙各紙も現地に特派員を送って大会の模様を伝えるようになっている。「オリンピックは特別」という意識が、新聞界全体に定着しつつあったと言っていいだろう。

1964年東京大会の開会式が行われた10月10日の毎日新聞夕刊一面

1964年東京大会の開会式が行われた10月10日の毎日新聞夕刊一面

 そして、新聞のオリンピック報道の発展の足どりで、何より大きな節目となったのは1964年の東京大会だった。オリンピックが自国にやって来る興奮。敗戦からの復興を世界に示すのだという高揚。スポーツの枠を超えて日本近代史の金字塔ともなった「世紀の祭典」に、新聞各紙は総力を挙げて取り組んだ。選手村での女子選手取材に備えて、多数の女性記者を各社が採用したのはこの時。彼女らは大会後、各部署で女性活躍の先鞭をつけていく。オリンピック自国開催という一大イベントが、新聞全体にも大きな影響を及ぼした一例である。

 大会前から閉幕まで、連日にわたって大報道が展開されたのはあらためて言うまでもない。金メダル16個を獲得した日本勢のことだけでなく、海外の強豪やあまり馴染みのない競技にも目を配っていた様子も紙面からはうかがえる。世界の93カ国・地域から5000人を超す選手が参加し、20競技、163種目が行われた大会を間近に見て、報道陣もあらためてスポーツの幅広さ、多彩さを肌で感じたのではないか。テレビ中継が本格的に行われ、「テレビンピック」の幕開けといわれた東京大会だが、全般的な情報量からして、新聞がこの時点でもオリンピックメディアの中心に位置していたとは言えるだろう。

 ただし、記事の内容からすれば、それまでのものとさほど変わりはなかった。競技を報じる記事の中に「根性がものを言う」「不屈の根性が開花」「精神的にもろい」「頑強な精神力」「歯を食いしばって耐えた」――などという表現が目立つのにも、そのことが表れている。「根性」「精神力」「不屈」といった、スポーツに対する古くて曖昧なイメージをいまだ脱していなかったのだ。かつてない大報道を繰り広げ、オリンピックという存在を世の中に広く知らしめはしたものの、スポーツ報道としての「質」はいまひとつだったのである。

 この大会では、多くの作家が新聞や雑誌に観戦記を寄稿した。独創的な視点と多彩な表現力を併せ持つ著名な作家たち。だが、いま読んでみると、その大半は類型的な内容で、陳腐にさえ感じる。スポーツ文化というものがまだ明確に意識されておらず、従って、スポーツを描く文化も未成熟だったというわけだ。

 この後、オリンピックは政治・経済や社会問題のはざまで揺れ動く時代を迎える。1968年のメキシコシティーではブラックパワーによる差別問題を突きつけられ、1972年のミュンヘンでは凄惨なテロ事件が起きた。1976年のモントリオールは大会後に深刻な財政破綻に見舞われ、1980年のモスクワは西側諸国のボイコットに立ち至った。新聞のオリンピック報道も、スポーツ以外の側面に否応なく向き合わねばならなかった時期だ。

 スポーツ記事の成熟という面で新聞が大きな転機を迎えたのは、1984年のロサンゼルス大会ではないだろうか。東側諸国のボイコットによる不完全な大会ではあったが、民間資金導入による商業化が大成功をおさめ、かつてなく華やかにショーアップされたオリンピックとなった。これによって世間の関心もいっそう高まり、新聞各紙はオリンピック特設面をつくって報道量を一気に増やした。その中で、量だけでなく報道の中身も進化したのである。

 一番のポイントは、記事の内容が幅広さを増したことだろう。曖昧でワンパターンだったスポーツ報道の古い意識を脱して、競技や競技者について深く掘り下げ、より多角的、多面的に描くようになったのだ。スポーツ本来の魅力である幅の広さ、多様さ、多彩さに、ようやく新聞が追いついたとも言えるだろうか。

 20世紀後半から21世紀にかけ、新聞各紙はますますオリンピック報道に力を入れるようになった。近年は、4-5ページにもわたる特設面を設け、1面、社会面なども埋め尽くす勢いで大会の模様を伝えている。あまり知られていない海外勢にスポットを当てるなど、取材の多角化も進んでいる。とりあえず、新聞のオリンピック報道は質量ともに発展し続けていると言っていい。

 しかし、その一方で、オリンピックメディアとしての存在感が年を追うごとに低下しているのは、もちろんテレビをはじめとする映像メディアのパワーのゆえだ。

 テレビ映像は近年、飛躍的な進化を遂げてきた。ウェブにもさまざまな映像が流れる。印象度でも即時性でも、活字は映像に太刀打ちできない。即座に競技のすべてを映し出すテレビの前で、新聞記事はいかにも影が薄い。活字メディア全体の落ち込みが激しい時代。せっかく質量ともに進化を続けてきたのに、オリンピックにおける新聞の存在感は低下の一途をたどっている。では、新聞報道はどの方向に進むべきなのか。

 いま、テレビにおけるスポーツの取り上げ方には際立った傾向がある。「芸能化」である。お笑い芸人やアイドルを頻繁に登場させるだけではない。一部の人気競技やスター選手、あるいは珍しさで話題になったような選手ばかりを取り上げ、競技に関係ないエピソードや交友関係をことさらにクローズアップするなどして、スポーツ番組をバラエティ番組のように仕立てる手法が目立つのだ。「人気」や「話題」や「トレンド」や「珍奇」ばかりを追いかけて、肝心のスポーツを伝えていないのである。オリンピックとなると、その傾向は一段と強まる。メディアがスポーツを扱う姿勢として、これに首をかしげないわけにはいかない。

 最近は、新聞もその傾向に引きずられているように見える。だが、スポーツファンはそのことをどう思っているだろうか。本当にスポーツが好きな人々は、「芸能化」に辟易していて、スポーツそのもの、競技そのものを伝えてほしいと願っているのではないか。なぜかといえば、芸能的な枝葉の部分より、競技そのものの中身の方がずっと面白く、ずっと魅力的だからだ。

 オリンピック報道に際して、新聞はあくまでスポーツそのもの、競技そのものを伝える姿勢をしっかり保つべきだと思う。スポーツには幅広い魅力、多彩な面白さがあり、それを多角的に、さまざまな面から取り上げていけば、読みごたえのある記事がいくらでもできる。「芸能化」したテレビのスポーツに辟易しているファンは、そんな姿勢を歓迎するに違いない。しごく当たり前のことだが、それがスポーツメディアというものではなかろうか。スポーツメディアとしての新聞は、そこにこそ存在意義を有するのではないか。

 つけ加えておきたいのは、オリンピックのオフィシャルパートナーなどに主要な新聞社が名を連ねるようになったことへの違和感だ。メディアは、あくまでファン代表として取材対象の外にいるべきではないか。それもまた、ファンから信頼されるオリンピックメディアとして、守るべき規範ではないかと思う。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。