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ピーター・ユベロス
ロサンゼルスが悪いのではない……

【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】

2019.07.10

あれは1997年の夏だった。前年の第26回アトランタオリンピックは商業主義の頂点だと批判された。選手が中心であるはずの輪の真ん中にいるのはスポンサー企業と企業の論理。オリンピックのありようが問われていた。

ロサンゼルスの市街地から自動車で約1時間、フリーウエーを南に下ったロングビーチ。海辺にちかいビジネスセンターの一角にあるオフィスに、私はいた。目の前にピーター・ユベロスが座った。背後に大投手、ノーラン・ライアンを描いた巨大な絵が掛かっている。1984年第23回オリンピック・ロサンゼルス大会を成功に導いた組織委員会会長。オリンピック終了後にはメジャーリーグ(MLB)の第6代コミッショナーにつき、赤字を抱えたMLBを変革、財政再建を成し遂げた。1989年にMLBコミッショナーを退いた後、コンサルタントをしている頃の話である。

1984年ロサンゼルスオリンピックの開会式で挨拶をするユベロス

1984年ロサンゼルスオリンピックの開会式で挨拶をするユベロス

あれも聞きたい、これも聞きたいと思いつつ、「商業主義批判」を繰り返す私に、ユベロスは半ばあきれたような顔でいった。

「ロサンゼルスが悪いのではないよ。ロサンゼルスの方法を表面だけまねした人たちが、オリンピックの姿を変えてしまったんだ」

ユベロスは1937年9月2日、米国イリノイ州に生まれた。同じ年の同じ日、大西洋を挟んだヨーロッパ大陸の中心、スイス・ジュネーブにあるラグルンジュ公園のベンチで1人の老人が亡くなった。ピエール・ド・クーベルタン。近代オリンピックの創始者である。窮地に陥ったオリンピックを救った男との奇妙な因縁を感じるのは、私ひとりだろうか……。

毎回、激しく争ってきたオリンピック招致が停滞した年があった。1984年に開催を予定する第23回大会である。開催都市は1978年5月、国際オリンピック委員会(IOC)アテネ総会で決まるはずだった。ところが、立候補する都市がない。いや、1都市だけ手をあげた。ロサンゼルス。しかし、それはIOCを当惑させる存在でしかなかった。

立候補申請書によればロサンゼルス市は財源を保証しないし、一切の責任も負わないという。立候補の意志を示していたのは民間の任意団体、南カリフォルニア・オリンピック委員会(SCCOG)である。公的資金を使わずに大会を開き、運営していく計画である。

オリンピックの長い歴史のなかで、考えてもみなかった事態にIOCは困惑した。困惑し、躊躇するが、認める以外に方法はない。

1979年3月、ようやく開催に向けて契約を交わした。失敗すれば、オリンピックは地球上から消えてなくなる。逆に言えば、SCCOGは「是が非でも成功」させなければならない。

なぜ、オリンピックは民間団体以外、立候補しない事態に陥ったのか。

1968年第19回メキシコシティー大会はアパルトヘイト政策をとる南アフリカの参加をめぐり、アフリカ諸国がボイコットを表明、旧ソ連など東欧勢が同調して南アは不参加となった。しかも、開催2カ月前にはソ連が民主化路線を進めるチェコスロバキアに侵攻し、大会に入ってからも米国の公民権運動激化の余波をうけた陸上男子200mに優勝したトミー・スミスと3位に入ったジョン・カルロス、2人のアフリカ系米国人選手が表彰式で抗議活動を行うなど政治の波に翻弄された。

1972年第20回ミュンヘン大会では、11日目に発生したパレスチナの過激組織『黒い9月』が選手村のイスラエル選手団を襲撃。選手団の2人を射殺、9人を人質にとって立て籠もり、結局、当時の西ドイツ政府が特殊部隊を投入し銃撃戦の末に選手団、犯人合わせて14人が死亡するオリンピック史上最悪の事件が起きた。大会は半旗を掲げて続行されたが、オリンピックはその後、政治主張の場と注目されて安全対策、つまり警備が最重要課題となっていく。

1976年第21回モントリオール大会でも南アをめぐる問題が起きたほか、中国が台湾参加に抗議してボイコット。相変わらず政治問題が続いたが、それよりも財政問題が大会を圧迫したことが大きい。第1次オイルショックの影響をかぶり、当初3億2000万ドルの予算が15億ドルに膨張、10億ドルの大赤字を計上した。このためモントリオール市は不動産税の増税で2億ドルを負担、ケベック州はたばこ税の増税で8億ドルを補填するなど完済まで30年を要した。

その後も1980年第22回モスクワ大会を米国など民主主義陣営がボイコットするなど東西冷戦構造も風雲急を告げていた。4大会の開催都市はすべて「M」で始まる。「4つのM」に多くの都市が開催を尻込みしたのだった。

ようやく開催を決めたSCCOGは、強いリーダーシップを持つ組織委員会会長の選定から準備を始めた。

  1. 40歳から55歳
  2. 南カリフォルニア在住
  3. 起業経験がある
  4. スポーツ好き
  5. 経済的に独立
  6. 国際情勢に通じている

6つの条件の下、全米600人もの候補者からコンピューターが絞り込んだのがユベロスだった。当時42歳。ロサンゼルス郊外に住み、従業員1人から始めた旅行代理店を北米2位に育てた。サンノゼ州立大時代は水球で活躍し、1956年メルボルン大会の代表候補でもあった。

この大会ではスポンサーのブースが多くつくられた

この大会ではスポンサーのブースが多くつくられた

「小さなオフィスを借り、段ボール1箱のファイルと20人のボランティア、100ドルで開いた銀行口座。それがすべての始まりだった」

公的資金が使えない状況で、どうすれば大会運営費用を捻出できるか、ユベロス会長は考えた。懐刀のマーケティング部長、ジョエル・ルーベンスタインと議論を重ね、思い至ったのが企業協賛金である。

財政破綻したモントリオール大会は628社の協賛を集めながら収入は700万ドル、1980年レークプラシッド冬季大会では300社を超えたが1000万ドルに届いていない。

マスコット「イーグルサム」のぬいぐるみ

マスコット「イーグルサム」のぬいぐるみ

広く浅い奉加帳方式は限界だった。「スポンサーを1業種1社に限定すれば競争原理が働く」。そう考えた。

スポンサー価値を高めるため、大会エンブレムやマスコットなどを独占的に商業使用できる権利を付与すると決めた。ねらいは1社最低400万ドルの協賛金。競争を巧みに利用した。例えばソフトドリンクの分野ではコカ・コーラとペプシコーラが競い、勝利したコカ・コーラは1260万ドルを提供した。1社でモントリオール大会628社分の1.8倍である。

最終的に35社から1億5720万ドルを集めた。ウォルト・ディズニー・プロダクション出身のデザイナー、ロバート・ムーア氏が考案した大会マスコット、米国の国鳥白頭鷲のイーグルサムを商品化、グッズ収入と協賛金集めに大きく貢献した。

もちろん放送権はいち早く高く売った。米ABCは2億2500万ドルの放送権料を用意して独占中継権を獲得、7500万ドルの放送設備費も負担した。しかも、金はすべて前払い。銀行預金として少しでも利子を稼ぎたいと考えた。すべては「オリンピックの価値」の活用である。

資金源となるのは、

  1. テレビ・ラジオの放送権料
  2. スポンサー協賛金
  3. シンボルマーク等を使った記念コインなどグッズ製作と販売
  4. 入場料
  5. 聖火リレー参加料

このうち、聖火リレーは3mを1ドルで売り、1090万ドルを集めた。しかし、この収益は「病院や教会とは寄付の競合もしたくない」との理由から全額YMCAなど慈善団体に寄付した。それが逆にオリンピックの宣伝効果に結びついて、大会は2億1500万ドルの黒字を計上することになる。

こうしたユベロス方式には大きな壁がたちはだかった。ほかでもない。IOCの女性事務局長モニク・ベリリューである。伝統主義者のベリリューはオリンピックへのビジネスの導入に猛反発、ミスター・アマチュアといわれたエイベリー・ブランデージ譲りの超然としたスタイルにこだわり続けた。

しかし、ユベロスはベリリューの反発を封じ込み、独自の手法を展開した。それは民間資本の導入もさることながら、競技会場は徹底して1932年第10回ロサンゼルス大会で使われた既存の施設を活用、新設は必要なものだけに限定した。しかも新設の場合も企業の協力を仰いで支出を減らし、選手村は大学学生寮を活用した。徹底した節約策だった。

「革新的であっても伝統を破壊してはならない。無駄を省いて経費をかけないが、親しみやすさのなかに威厳も必要だ」

ユベロスの思いを集約すればこうなる。

1932年ロサンゼルス大会と同じ競技場を使用

1932年ロサンゼルス大会と同じ競技場を使用

1984年のロサンゼルス大会といえばつねに「商業主義の始まり」と称される。しかし、民間活力の導入以前に、経費削減の努力が払われていたことを忘れてはならない。

ユベロスは、間一髪、オリンピックを危機から守った。ユベロス方式はオリンピックに繁栄をもたらし、「儲かる」という"神話"さえ生まれた。そして、様子を伺っていたIOC第7代会長のファン・アントニオ・サマランチと、彼の盟友のスポーツ用品メーカー・アディダス2代目社長ホルスト・ダスラーによってオリンピック・ビジネスとして完成、2020年東京大会にも続くモデルとなる。そうした意味では、ロサンゼルスが商業主義の始まりだといってもいい。

しかし、ユベロスは言うのである。「ロサンゼルスをそうした側面だけで判断してほしくない」と。

「ロサンゼルス大会はソ連や東欧諸国が参加をとりやめたが、中国など140のNOCが参加して楽しい期間を過ごすことができた。全体の35%だった女子選手の参加を、42%にまで高めてバランスを取ることもできた。そして貴族や金持ちのものと思われてきたオリンピック運動に、普通の人たちが直に関われるようになった大会でもある」

そう断言したユベロスに、こう聞いた。

「より多くの人々が関心を集める巨大イベントこそ、大観衆、視聴者、消費者という名の大衆がスポーツのパトロンとなったことの証明ですね」

彼はゆっくりとうなずいた。

ロサンゼルスの黒字は60%が米国オリンピック委員会に、40%が南カリフォルニアに寄付され、スポーツ振興にあてられた。そして、ユベロスはIOC委員就任要請を断り、選手村村長を務めた黒人の女性オリンピアン、アニタ・デフランツ(現IOC副会長)を身代わりに推薦。自らはMLBコミッショナーとなり、「ユベロス方式」をMLBに導入して大ナタを揮うのである。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。