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セミナー「子供のスポーツ」

エイベリー・ブランデージ
神になった「Mr. アマチュア」

【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】

2019.08.21

札幌市の南西、標高531mの藻岩山は夜景が美しく、四季を通して市民の憩いの場となっている。1946(昭和21)年に札幌スキー場として開場、札幌の山スキーの"発祥の地"でもある。

山頂から石狩平野を一望できる藻岩山

山頂から石狩平野を一望できる藻岩山

この山の中腹「もいわ山ロープウエイ中腹駅」のとなりに、祠といってもいい、小さな社がある。藻岩山神社。この地の氏神である伏見稲荷大神とともに、一風変わった神様たちが祭られている。北欧神話に登場するスキーの神様「ウルの神」、日本にスキーを伝えたとされ、藻岩山とも関係の深いオーストリア陸軍軍人「レルヒの神」、そして、わが「ブランデージの神」だ。このブランデージの神、俗名をエイベリー・ブランデージという。米国出身の国際オリンピック委員会(IOC)第5代会長にほかならない。

なにゆえ、IOC会長が祭神となったのか。由来には、「札幌オリンピック開催の恩人」とあった。

1972年第11回冬季オリンピック札幌大会。日本で、いやアジアで初めて開催された冬季大会は「北の都」に地下鉄を通し、高速道路をつくり、街並みを整備して今日の200万都市となる基礎を築いた。

じつは札幌こそ、日本で初めて聖火を迎える都市となるはずだった。「幻の」と形容される1940年オリンピック。夏の東京が主役ではあったが、冬季は札幌で開催する予定であった。結局、戦渦の拡大で返上せざるを得なくなり、以来、「オリンピック開催」はこの都市の悲願となる。1968年大会招致に失敗したあと、1972年大会開催都市を決めたのは1966年4月26日のIOCローマ総会。1回目の投票でライバルのバンフ(カナダ)の倍以上となる34票を獲得し、札幌が選ばれた最大の要因は、病気で欠席したIOC委員、高石真五郎のテープによる訴えだった。高石はこう述べた。「30年間埋もれていた冬の花を札幌で咲かせてほしい」。

この日本の演出に力を与えたのが当時のIOC会長、ブランデージにほかならない。「タカイシへの最高のお見舞いは、サッポロに大会を与えることだ」。この発言で流れは一気に札幌に傾いた。

ブランデージは大の日本びいき、日本文化の愛好家であり、日本美術のコレクターでもある。IOC委員でもあった嘉納治五郎との親交は深く、疑問を呈するヨーロッパのIOC委員を押さえ込み、1940年大会の東京開催に理解を示した。戦後は、日本のIOC復帰(1950年)を後押しし、1964年東京大会実現にも力を貸した。ブランデージ会長のもと1964年東京、1972年札幌冬季、2つのオリンピックが日本で開かれたのは単なる偶然ではない。

札幌大会は大成功した。会期中、テーマ曲『虹と雪のバラード』が流れる冬の札幌は見事に晴れ上がり、スキーの70m級ジャンプでは笠谷幸生、金野昭次、青地清二の「日の丸飛行隊」が金、銀、銅メダルを独占。快挙に日本中が酔いしれた。

ただ、ひとつ「アマチュア」という問題が大きな影を落とした。開会式を3日後に控えた1月3日、IOCは札幌市内のホテルで開いた総会で、オーストリア代表のアルペンスキー選手、カール・シュランツの参加資格剥奪を28対14という大差で決定した。シュランツが「名前と写真を広告に使わせたことがオリンピック憲章に定められたアマチュア規定に違反する」という理由からだった。

札幌の子どもたちと一緒に写真におさまるシュランツ(1972年)

札幌の子どもたちと一緒に写真におさまるシュランツ(1972年)

いまでは考えられないことだが、当時はオリンピックに出場できるのは「アマチュア」に限られていた。アマチュアとは19世紀のイギリスで生まれた概念で、肉体を使って報酬を得た者はアマチュアではないと規定された。勃興する労働者階級を上流層がスポーツの世界から排除する理由として使われたわけである。近代オリンピックも創設当初からアマチュア資格が問題視され、クーベルタン自身「ミイラ」呼ばわりしながらこの問題に頭を悩ませた。

ブランデージは厳格に「アマチュア規定」を順守することを説き続け、「ミスター・アマチュア」と言われた人物である。当時、すでにプロスポーツが興隆し、共産主義陣営には国の威信を示すために国家をあげて支援する「ステートアマ」が生まれていた。だが、ブランデージは宗教のように「アマチュアリズムの順守」を唱え、「冬季オリンピックの導入はクーベルタンの過ち」とまで言ってのけ、1968年のIOCグルノーブル(フランス)総会では冬季オリンピックの排除を議題にあげた。さすがにブランデージ提案は否決されたが、国際スキー連盟(FIS)との対立は激化していく。

この頃、国際スキー界はワールドカップが活動の中心となっており、選手たちは年間約120日もの間、世界を転戦していた。トップ選手の大半は生活の基盤をスキーメーカーやスポンサーなどに支えられ、活動はスキー競技の普及、技術向上に役だったことは言うまでもない。

しかし、ブランデージはこの風潮を快く思わず、なかでもスキー用品メーカーの幹部でもあったシュランツを目の敵にした。シュランツは当時約6万ドルの年収を得て、さまざまな広告に写真を提供したりした。ほかのアルペンスキーヤーも同じような状況ではあったが、シュランツの度重なる反抗的な言動に激高、ついに堪忍袋の緒を切ったといってもいい。

「ブランデージは私を追放できない。なぜならば、私はほかの選手の事例を告発できるからだ」

ブランデージをはじめ、IOC委員たちはこれを「IOCへの脅迫」とうけとった。IOCは44選手に及ぶ違反者リストを作成していたが、これほど多くの選手が追放となれば札幌大会のスキー競技は成り立たなくなる。結局、シュランツひとりの追放で収束をはかったのである。

当然、オーストリア選手団は決定に抗議、帰国の動きをみせた。これを説得したのが「世界で最も悪質なスキーヤー」とブランデージに名指しされたシュランツである。「私の代わりに私の夢だったオリンピックで戦ってほしい」との言葉に、オーストリア選手団は帰国を回避。開会式前夜、札幌オリンピックは守られた。その意味では札幌オリンピックの恩人はむしろカール・シュランツであり、「シュランツの神」として祭られるべきではないのか。

「シュランツ事件」はオリンピックのアマチュア主義を示した例としてあがるが、ブランデージが1972年夏のミュンヘン(ドイツ)大会を最後に会長を退くと、現実の流れに竿差すことになる。1974年、第6代IOC会長マイケル・キラニンのもとウィーン(オーストリア)で開いたIOC総会は、オリンピック憲章から「アマチュア」の文言を削除することを決めた。

1964年東京オリンピックでレスリングを観戦するブランデージIOC会長

1964年東京オリンピックでレスリングを観戦するブランデージIOC会長

エイベリー・ブランデージは1887年9月28日、米国ミシガン州デトロイトに生まれた。労働者階級の家庭に育ち、新聞配達をしながらイリノイ大学で土木工学を学び、陸上競技選手としても活躍した。大学卒業後の1912年、第5回ストックホルム(スウェーデン)大会に五種競技、十種競技の代表として出場、6位、16位だった。このとき両種目で優勝したのがジム・ソープである。

ソープはAP通信が主催、1950年に全米スポーツ記者の投票で「20世紀最高の男子選手」に選ばれた。ベーブ・ルースやジェシー・オーエンスを抑えての選出はソープの存在を際立たせるが、オリンピック史上に残る「アマチュア規定違反として金メダルを剥奪された」第1号でもある。オリンピックの翌1913年、3年前に1年だけノースカロライナのマイナーリーグに参加、野球選手として週25ドルもらってプレーしていたことが発覚。全米体育協会と(AAU)米国オリンピック委員会(USOC)が同意して2個の金メダルはIOCに返還され、記録は抹消された。

マサチューセッツ州の地元紙のスクープとされるが、ブランデージが「ソープの違反を注進した」との話がいまも根強く残る。

ちなみにソープは1953年3月に亡くなり、その後、遺族や出身地域が中心となって復権運動が起きた。しかし、ブランデージ会長時代のIOCは一顧だにしていない。ようやく1983年、IOCは謝罪し金メダルを遺族に返還した。ロサンゼルス大会を1年後に控え、米国で不人気なファン・アントニオ・サマランチ会長の人気取り策だと揶揄された。

閑話休題。ブランデージはシカゴを本拠に建設業で成功、1928年にAAU会長、1929年にUSOC会長となり、1930年には国際陸上競技連盟(IAAU)副会長に選ばれた。IOC委員となるのは1936年。副会長などを経験したのち、1952年にジークフリート・エドストロームの後をうけて第5代会長となった。

同じ1952年、ソ連(いまのロシア)が初めてオリンピックに参加した。以来、東西冷戦のただなかでオリンピックは政治に翻弄されていく。アフリカと南アフリカへの制裁、中国と台湾の対立、そして米国での公民権運動の激化…、会長としてのブランデージはその都度、「政治の排除」を口にしながら難しい決断を迫られた。なかでも1972年ミュンヘン大会はオリンピックの試練であった。

大会開催中の9月5日早朝、「ブラックセプテンバー」を名乗るパレスチナ武装ゲリラが選手村のイスラエル選手団を襲撃、選手2人を射殺した後、選手、コーチら9人を人質に立てこもった。膠着状態のまま、ゲリラと人質は空軍基地に移動。西ドイツ特殊部隊との銃撃戦となり、人質全員と警察官1人、ゲリラ5人が死亡する最悪の結末を招いた。

大会は36時間中断の後、犠牲となったイスラエル選手達の追悼式を行った。ブランデージの追悼演説にはイスラエル選手たちへの哀悼はなく、オリンピック運動の強さばかりが強調された。大会は中止することなく、半旗を掲げて再開。「テロに屈しない」というブランデージの強い意志の表れだったが、非難も少なくなかった。

1972年ミュンへン大会のバレーボールで優勝した日本男子チームとブランデージIOC会長

1972年ミュンへン大会のバレーボールで優勝した日本男子チームとブランデージIOC会長

ブランデージは大会後に会長を引退。3年後の1975年5月8日、西ドイツ(当時)のガルミッシュ・パルテンキルヘンで死去した。その生き方は剛直で「時代遅れの恐竜」と批判にもめげるところはなかった。アマチュアリズムへの信仰にちかいこだわりは心の拠り所でもあったが、労働者階級出身の彼が労働者排除の思想を擁護したことは何とも皮肉なことではあった。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。