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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

長嶋さんと聖火リレー、そして金メダル……

【2020年東京オリンピック・パラリンピック】

2022.08.23

1.日本が目頭を熱くした

 その登場に目を見張った。2021年7月23日、東京オリンピック開会式。読売巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが「ON砲」の盟友、王貞治さん、愛弟子の大リーグ元ニューヨーク・ヤンキースの松井秀喜さんとともに聖火リレー走者として国立競技場の舞台に立った。

 柔道の野村忠宏さん、レスリングの吉田沙保里さん、オリンピック3連覇を果たした2人の手で国立競技場の聖火リレーがスタート。球界のヒーローたちはオリンピック・レジェンドから聖火を引き継いだ。

 トーチキス役を務めたのは長嶋さん。トーチに聖火を移すと王さんにそれを委ね、松井さんに体を支えながら“走り”始めた。ゆっくりとした歩みに、「何らかの形で関わる事ができたら」と話していたオリンピックへの感慨を思ったのは私だけではあるまい。

国立競技場で聖火を運ぶ王貞治氏(左)、長嶋茂雄氏(中央)、松井秀喜氏(右)

国立競技場で聖火を運ぶ王貞治氏(左)、長嶋茂雄氏(中央)、松井秀喜氏(右)

 17年前、長嶋さんは2004年アテネ大会の野球日本代表監督としてオリンピックの舞台に立つはずだった。しかし開幕まで5カ月を切った34日、脳梗塞に倒れ、思いを残したまま闘病生活に入らなければならなかった。

 1964年東京大会で王さんとさまざまな競技を観戦し、報知新聞に『ON五輪を行く』として寄稿。国を背負って戦う世界がある事を知って以来、長嶋さんは「オリンピックは特別なもの」と語るようになった。東京に再び聖火が灯ることを知ったとき、その喜びようはなかったと次女三奈さんが述懐している。長嶋さんが聖火リレーの走者になる事は早くから関係者が口にしていた。しかし2019年に体調を崩して以降、あまり表に出なくなり、巨人軍の練習や試合などに姿をみせても車いすだった。ひそかに日本オリンピック委員会(JOC)は車いすを用意していた。

 ところが本番になると、長嶋さんは松井さんに体を支えられてはいたが、自分の足で国立競技場を“走り”次の走者である医療従事者に聖火を繋いだ。前年秋から自宅地下室の歩行練習のためのマシンを使い、食事にも気を配って、この日に備えていたと聞く。その姿に多くの人たちが目頭を熱くした。選手長嶋がプレーでこの国を元気づけてきた事を知る日本人にとって、長嶋さんは特別な存在なのである。

2. 長嶋さんは落ち着かなかった

 長嶋さんは「侍ジャパン」の戦いを気にかけていた。

 初戦は2021年7月28日、福島・あづま球場のドミニカ戦。7回から登板した2番手投手が打たれて2点を先制された。その裏、巨人でも活躍するメルセデスを打ち倦んでいた打線がようやく1点返したが、9回にまた2点差に広げられた。このまま終わるかと思われたその裏、柳田悠岐(ソフトバンク)、代打近藤健介(日本ハム)、村上宗隆(ヤクルト)の連打で1点差に。9番甲斐拓也(ソフトバンク)のセーフティースクイズで同点。さらに山田哲人(ヤクルト)が安打で満塁とし、坂本勇人(巨人)がサヨナラ安打した。

 追い込まれながら代打、代走、スクイズなど作戦が奏功。初戦を43と勝利した。しかし長嶋さんは落ち着かなかったのか。31日横浜スタジアムのメキシコ戦に足を運んだ。

 この試合も先制された。しかし2回に甲斐のタイムリー打で追いつき、3回には三塁走者坂本が投手ゴロの間にヘッドスライディングで生還して勝ち越し。4回山田の3点本塁打で突き放した。その後、両チームが点を取りあい、最後は栗林良吏(広島)が締めて74A1位となった。

 東京2020大会の野球競技は変則的な形式で実施された。新型コロナウイルスの影響もあって出場は6カ国。3チームずつ2組に分かれ各組順位を決める。1位同士が対戦し勝ったチームと残り4チームから勝ち上がったチームと準決勝を戦う。そこで勝つと、残り5チームによる変則トーナメントを勝ちぬいたチームと決勝戦を行う。

 「消化試合がなく、すべての試合がメダルに関わる」と組織委員会は胸を張ったが、全勝チームと最大3敗したチームが金メダルを争う事もある。なんとも歪な方式は国際スポーツ界における野球の地位の低さの証明にほかならない。次の24年パリ大会には出番はなく、悲願の「金メダル」は東京でしか果たし得ない宿題だった。

 1位同士の試合は82日、米国が相手。3回に吉田正尚(オリックス)と柳田のタイムリー打で日本が2点を先制したが、先発の大リーグ78勝、田中将大(楽天)が4回に3本のタイムリー打を浴びて逆転を許した。

 その裏、坂本が同点打したが、5回に2番手投手が4番カサスに3ラン本塁打を浴びた。

 その裏、4番鈴木誠也(広島)の本塁打などで1点差とし、9回に追いついた。決着は無死一、二塁から始めるタイブレーク。10回表、栗林の力投で0点に抑えると、その裏、代打栗原陵矢(福岡)の送りバントで二、三塁から甲斐がライトに運んだ。サヨナラ勝ちで準決勝に進み、稲葉篤紀監督は「諦めることなく戦ってくれた」と選手たちを褒めた。

 8月4日の準決勝の相手は2000年シドニー大会以降4連敗中の宿敵韓国である。

 日本は3回に先制すると、5回には山田、吉田の長短打で追加点。試合の主導権を握ったが、6回、好投していた先発の山本由伸(オリックス)が味方の守備の乱れでリズムを崩して失点。救援投手も打たれて同点に。

 しかし、中継ぎ投手が韓国に傾きかけた流れを断ち、8回二死満塁から山田が走者一掃の二塁打。3点を栗林が守り切って「悲願にあと1勝」とした。

 試合前、長嶋さんは稲葉監督に電話をかけている。「頑張ってと言われた」と稲葉監督が明かしたのは決勝前日の会見。居ても立ってもいられない長嶋さんの思いが伝わった。

3. オリンピック野球の始まりは……

 オリンピックの野球の始まりと言えば、1984年ロサンゼルス大会公開競技を思う。前年のコラム『長嶋茂雄にはオリンピックがよく似合う』で私もそう書いた。正確に言えば、1904年第3回セントルイス大会でエキシビションとして開催。あの戦禍の拡大で開催権を返上した1940年東京大会でも公開競技として実施される予定だった。

 1964年東京大会では公開競技として開催された。開会式翌日の1011日。会場となった明治神宮野球場の左翼席後方には聖火が赤々と燃えていた。米国大学選抜を迎え全日本学生選抜、全日本社会人選抜がダブルヘッダーで戦う9回打ち切りのエキシビションである。

 学生選抜は全日本大学選手権に優勝した駒沢大学を中心に編成。帽子は「J」マーク、新調されたユニホームの左袖に「日の丸」がついた。捕手の新宅洋志(中日)、大下剛史(東映)ら駒大勢10人に、後にプロ野球で名を馳せる7人が加わった。歴史の縁に記しておきたい。東京六大学史上初の完全試合達成の渡辺泰輔(慶大-南海)とアンダースロー木原義隆(法大-近鉄)、野手は広野功(慶大-中日)、武上四郎(中大-サンケイ)、土井正三(立大-巨人)、末次民夫(中大-巨人)、長池徳二(法大-阪急)、華やかな顔ぶれだ。社会人選抜は都市対抗優勝の日本通運が中心。後にプロ入りする日通の田中章(巨人)や竹之内雅史(西鉄)らに近藤重雄(日本コロムビア-ロッテ)や清沢忠彦(住友金属)らが加わった。東京都知事でIOC委員の東龍太郎の始球式で始まり、学生選抜は2-2で引き分け、社会人選抜は0-3で敗れた。

 大会組織委員会が編集、発行した報告書には入場料金と35275枚が販売され、29917人の入場があったと記載された。しかし選手の名もスコアの書かれていない。新聞各紙の扱いは雑報の域を出なかった。

4. ロサンゼルスで金メダルは獲得したが……

1984 年ロサンゼルス大会の公開競技「野球」 で優勝した日本チーム

1984 年ロサンゼルス大会の公開競技「野球」 で優勝した日本チーム

 1984年ロサンゼルス大会は当時の国際野球連盟が働きかけて米国、台湾、イタリア、ドミニカ、韓国、ニカラグア、カナダと日本の8カ国が参加。公開競技ではあったが、ナショナルチームが集う初めての試みとなった。

 日本は準決勝の台湾戦に延長10回、荒井幸雄(日本石油-ヤクルト)の安打でサヨナラ勝ち。米国との決勝戦は広澤克己(明大-ヤクルト)の本塁打など63で勝利し、金メダルを獲得した。

 1988年ソウルは野茂英雄(新日鉄堺-近鉄)や古田敦也(トヨタ自動車-ヤクルト)らの活躍で決勝に進み、再び米国と対戦。先制しながら37、逆転負けで銀メダルに終わった。完投勝ちしたのが大リーグで活躍する先天性右手欠損の左腕ジム・アボットだった。

 正式競技となった1992年バルセロナ大会は準決勝で台湾に敗退、3位決定戦で米国に勝利して銅メダル。1996年アトランタ大会は準決勝で米国に112と快勝し、キューバとの決勝は6点差をつけられる展開となり、1度は松中信彦(新日鉄君津-ダイエー)の満塁本塁打などで追いついた。しかし最終的には913で敗れ、金メダルに届かなかった。

 プロ選手の参加が解禁された2000年シドニー大会はアマチュアを主体に松坂大輔(西武)や松中らプロ8人が加わった。しかし全員が顔を合わせたのはシドニー入り後。急造チームでは勝てない。準決勝でキューバに完封負け。韓国との3位決定戦は0-0で延長に入り、好投していた松坂がイ・スンヨプに決勝タイムリーを浴び、初のメダルなしだった。野球が盛んな米国や韓国、キューバと5度戦い、1度も勝てなかった。

 2004年アテネ大会は長嶋さんが監督に就任。初めて全員をプロ選手で編成し、早い時期から代表として活動した背景にシドニーの反省があった。長嶋さんが病に倒れ、中畑清ヘッドコーチが監督代行となった大会では初めてキューバに勝利、1次リーグもトップで勝ちぬけたが、準決勝のオーストラリア戦は阪神のクローザー左腕ジェフ・ウイリアムスに交わされて完封負け。カナダに勝って銅メダルは獲得したが……。

 2008年北京は星野仙一監督のもと、後に大リーグ入りするダルビッシュ有(日本ハム)、田中将大らを擁し雪辱を期したが、準決勝の韓国戦、米国相手の3位決定戦はともに大事な場面でG.G.佐藤(西武)の落球という不運に見舞われて、メダルの獲得もならなかった。

 2013年に侍ジャパン打撃コーチ、2017年監督に就任した稲葉篤紀(日本ハム)はこの大会、外野手として出場した。地元開催の東京で金メダルを悲願とする流れはできていた。

5.87日は悲願達成記念日

東京2020 大会で優勝を決め喜びを爆発させる侍ジャパン

東京2020 大会で優勝を決め喜びを爆発させる侍ジャパン

 米国との決勝戦は202187日。日本が3回、村上の本塁打で先制した。先発の森下暢仁(広島)は緩急をつけた投球がさえ、5回を無失点に抑えた。6回からは小刻みな継投となり、米国の反撃をかわしていく。

 そして8回、相手の守りの乱れと山田の好走塁で貴重な追加点をあげ、最終回を栗林が締めて2-0、完封で初の頂点に輝いた。 

「楽な試合はひとつもなかったが、金メダルを獲りたいという思いが結束していい試合ができた」-稲葉監督の言葉は実感だったろう。 

 長嶋さんは巨人を通じて祝福のコメントを送った。そこには「日の丸を背負って戦うことは思う以上に責任を感じるものです。そのプレッシャーをはねのけ、チーム一丸となって勝利をつかんだ侍ジャパン。見ていた私も感動しました」とあった。 

 その日から88日後、長嶋さんは天皇陛下から文化勲章を授与された。金メダルに続くご褒美は球界から初めて、スポーツ界でも水泳の古橋廣之進さんに次いで2人目である。同じ年の聖火走者も野球の金メダルも、そして文化勲章も。新型コロナウイルス禍が残した偶然という遺産だが、長嶋茂雄という人の奇跡であったかもしれない。

注:所属チームは試合当時


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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。