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セミナー「子供のスポーツ」

第一回冬季パラリンピック大会に自費で個人参加した日本人

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.07.13

第1回冬季パラリンピック・エンシェルツヴィーク大会、深澤 さんのスタート

第1回冬季パラリンピック・エンシェルツヴィーク大会、深澤 さんのスタート

 1976年、「第一回身体障害者冬季オリンピック」と表記された大会がスウェーデンのエンシェルツヴィークで開かれた。この大会は後に冬季パラリンピックと名称を変更することとなる。ここでは冬季パラリンピックに統一して表記することとする。北欧の小さな町には16ヵ国から198人の選手たちが集まってきた。競技はアンプティー(下肢切断)と視覚障害を対象としたクロスカントリーとアルペンで、同時にデモンストレーション競技としてアイススレッジも行われた。実は、この時の198人のうちに1人の日本人選手がいた。深澤貞実さんだ。

 21歳の時にオートバイの事故で右足大腿部から下を失った深澤さんは、38歳の時に、エンシェルツヴィークの第一回冬季パラリンピック大会に自費で個人参加をしていた。深澤さんはなぜ、個人参加だったのか。自費でも参加したいという思いはどこから来たのか。日本パラリンピック委員会の公式ホームページでは、「第一回冬季パラリンピック大会には日本からの参加は無し」と記載されていた。最近、この記述を訂正してもらったが、公式に日本で認められていなかったことは本人にとっても残念で口惜しいことだったろう。筆者は長野パラリンピックの前年1997年の4月に、初の冬季パラリンピック出場者として深澤さんを取材し、テレビ朝日のニュースステーションの特集で取り上げた。この時にはフィルム映像で深澤さんの競技の様子も紹介し、回転で5位に入賞していることも伝えている。

 実は深澤さんは日本の障がい者スキー競技者として草分け的な存在だっただけでなく、選手強化や組織作りにも奮闘してきた人なのだ。ここではまずは深澤さんのスキーに対する思いに触れたい。右足を失った当初は自殺まで考えたほどだったが、その後スキーに出合って、人生が大きく変わる。長野県身体障害者スポーツ協会のページに掲載するための「身体障害者スキー協会紹介下書き」に残されていたものだ。

 吹雪いた昨夜がうそのように今朝はからりと晴れ渡る。

 起伏のバーンがキラキラと輝き眩しい。スキーヤーが弧を自由自在に描いて滑り降りていく。雪原のカンバスに「直線と弧」がくっきりと浮かび上がる。「これだ」とそのシュプールに人生のデザインを重ねる。悶々とし暗雲にとざされたような心に一条の光が差し込む。

 一本足スキーで両ストックに全体重をかけ、一歩また一歩と斜面を登る。転び転び滑り降りる。滑る距離を10m、20m…と延ばす。全身汗びっしょり、精魂尽き果て雪の中に倒れ込む。不思議と雪は暖かく、底知れぬ爽快感が体を吹き抜ける。紺碧の空、白樺の梢の上を薄雲がすーっと流れる。「生きている」との実感が沸々と湧く。「負けてたまるか」とまた立ち上がる。昭和35年(1960年)ころのことである。

 

 パラリンピックが目的とした、スポーツによる人間性の回復と自立を、深澤さんは初めて一本足でスキーを滑った時に味わったのだ。頭の中に渦巻いていた悩みがスキーと共に消えていき、前方に光が差してくる様子が手に取るようにわかる。深澤さんはこの時から一本足スキーと共に人生を歩み始めることになる。

 深澤さんの文章にもあるように、初めはストックを使用して片足で滑っていた。しかし、一本足スキーを始めて5年目にアウトリガーというストックの代わりの補助具が日本に紹介されると深澤さんのスキーの技術は飛躍的に向上していった。アウトリガーはスキーでは転倒予防のために、ストックの先に小さなスキーが付いているものを指す。片脚だけで滑るスキーには大きな助けとなる補助具だ。

 このアウトリガーについて、深澤さんが残した「長野県障害者スキー協会紹介」には、「1965年(昭和40年)にアメリカから原子力技術者として来日していたコリン・S・カウドウェル氏がアウトリガーを持参し、志賀高原で指導を受けた」とある。多くの障がい者スキーに関する記事では、1971年に笹川雄一郎氏がカナダから持ち帰ったアウトリガーが日本で最初のものであるとしているが、正式には1965年の米国のカウドウェル氏が持ち込んだものが日本で最初のものということになりそうだ。

 ところで、アウトリガーをカナダから持ち帰った笹川雄一郎氏は、新潟県妙高の燕温泉出身の著名なスキーヤーで、1943年の戦中に、早稲田大学の学生としてアルペンで全日本選手権やインカレで優勝している。その笹川雄一郎氏がカナダで障がい者のスキーに出合い、是非とも日本でも普及させたいと呼びかけたのが1971年のことだ。それに応じて、翌年、深澤さんをはじめとした志を同じくする8名が竜王スキー場に集まった。「切断」を意味するアンプティーという言葉を使って、アンプティースキークラブを発足させた。竜王スキー場には笹川氏が所有する笹川ロッジがあり、ここが障がい者スキー誕生の基地となった。さらにこのメンバーで、第一回全国身体障害者スキー大会が行われることになったのだ。

 翌年、有志で創ったアンプティースキークラブは「日本身体障害者スキー協会」と名称変更し、笹川雄一郎氏を会長として、深澤貞実さんが副会長となった。第二回全国身体障害者スキー大会には35名が参加しており、さらには特別参加としてカナダ・アルバータ州「ハンデ・スキー協会」の会長であるジェリー・ニューマン氏とトム・フェリス氏を招いて技術指導を受けている。新しい技術を海外から習得して、少しでも広めたいという笹川会長と深澤さんの情熱が目に見えるようだ。

 深澤貞実さんは1976年にスウェーデンのエンシェルツヴィークで第一回冬季パラリンピック大会が行われることを聞きつけ、是非とも日本選手団を派遣したいと意を強くする。しかし、国の関係者や企業などに掛け合ったものの、当時は障害を持った者がスポーツをすることに理解を示すところはほとんどなく、日本選手団を結成することなど夢のまた夢となった。結局、深澤さんは自費でスウェーデンに向かうこととなる。

 実はこの時深澤さんと一緒にスウェーデンに向かったもう1人の日本人がいた。大阪市立大学の整形外科の医師、坂本和秀さんだ。坂本さん自身も第二次世界大戦で負傷をして右大腿切断の身だった。この大会から多いに刺激を受けて後に深澤さんなどをモデルとして、「脚はなくてもスキーはできる」と題した本を講談社から出版している。さらに、坂本さんは兵庫県に身体障害者スキーの楽園を目指したスキー場を作って、その経営にも携わった。エンシェルツヴィーク冬季パラリンピックがきっかけとなって、深澤さんが長野県で、坂本さんが兵庫県で、それぞれ障がい者自らの手でスポーツ環境を整えていこうと決意したことは想像に難くないだろう。

 

 1980年にノルウェーのヤイロで行われた第二回冬季パラリンピック大会からは、笹川雄一郎氏の働きかけもあり、日本選手団を送ることができるようになった。この頃から髭の殿下として知られる三笠宮寛仁親王のサポートもあり、障がい者スキーは徐々に注目を集めるようになる。当時、深澤さんの考え方を示すエピソードがある。日本自転車振興会から補助金が出るようになった頃、本来は自分たちの協会内だけで使えばよいのだが、日本チェアスキー協会の選手遠征のためにもこの補助金を使ってはどうだろうかと深澤さんから提案があった。障害を負ったものは皆同じ、互いに助け合ってスポーツの楽しみを分かちあうべきというのが深澤さんの考えだった。1981年からは協会の全国組織化が可決されて、九州の福岡以北、あらゆる県に支部ができるようになり、全ては順調に見えた。

深澤貞実氏(自宅で)

深澤貞実氏(自宅で)

 ここで、第一回大会から連続4回のパラリンピックに出場した深澤さんの人となりに触れてみよう。筆者が初めて深澤さんに会ったのは、長野パラリンピックの一年前の1997年だった。以前、いすゞ自動車の営業職に就いていただけに、深澤さんは話好きで人の気をそらさない。その後、長野の駅前の東急デパートの介護用品売り場の仕事に移ったが、ここでも話術は巧みだった。

「お客さんが来るとね、いや、私もこんな脚なんですよと言ってね」

 深澤さんは義足をぎゅっと膝から前に曲げて見せる。後ろにしか曲がらないはずの膝が前に曲がるのだから、初めて見た人はぎょっとする。

「義足でね、私は腿から下がないんですよ」と深澤さんが説明すると、ほとんどの客は「大変ですねえ。私の苦労や痛みなんて大したことないですね」と言って、深澤さんの商品説明を熱心に聞いてくれるという。

 結婚して一男一女をもうけ、俺は負けないという反骨心をユーモラスな言葉で包みながら、仕事に、スキーに情熱を傾ける人生。しかし、大きな悲しみもあった。最愛の息子をオートバイの事故で亡くしていたのだ。自らの右脚を奪ったオートバイが、息子の命までも奪ってしまう悲運は、深澤さんをよりスキーへと向かわせたのかもしれない。

 自らの技術を磨くだけでなく、選手強化にも直接かかわってきた深澤さんだが、愛弟子ともいえるのが目黒正己さんと青木辰子さんだ。

 目黒さんによれば、深澤さんはスキーに対しては大変厳しく、よく「人が話していることを理解して滑っているのか」と言って怒られたという。2度パラリンピックの日本代表になった目黒さんは、その後、新潟の障がい者スキー協会の代表になり、全日本障がい者スキー連盟の副会長を務め、退任した後は現在も日本身体障害者スキー協会の会長となっている。深澤イズムを継承する1人だ。

 18歳まで健常者としてスキーに親しんできた青木辰子さんは、片足だけでもスキーができると深澤さんを紹介されて、再びスキーを楽しむようになった。1988年にインスブルックで行われた第4回冬季パラリンピック大会では、深澤さんが監督兼選手として出場し、青木さんも選手として出場している。青木さんはその後、片足スキーで事故にあい、手術を受けるも麻酔が合わず、下半身まひの重い障害を負ってしまう。それでもスキーに対する情熱が冷めることはなく、深澤さんの指導を受けながら、チェアスキーで長野パラリンピックに出場、さらには、ソルトレークシティ、トリノ、バンクーバーと4大会に出場する日本を代表する選手へと育っていった。

 深澤さんが指導したのは日本を代表するトップ選手だけではない。修学旅行でスキー体験にやってくる中高生の中に障害を持つ生徒がいると、現地に出かけていく。生徒にはチェアスキーの乗り方やアウトリガーの使い方などを教え、さらに付き添いの教員にも片脚で滑るスキーを指導する。障がいを持つことを疑似体験してもらうのだ。チェアスキーで初めて雪上を滑る快感を体験する生徒、その横を一本足でシュプールを描きながらついていく深澤さん、遅れて必死に滑ってくる教員、それはとても素敵な光景だった。どんな障害を持っていても、スキーがその人が持つ何かを刺激してよりよい人生が送れるきっかけになってほしいというのが深澤さんの想いだったのだ。

 ご自宅にお邪魔し、以前、米国コロラドのウインターパークで取材をした障がい者スキーセンターの様子を深澤さんにビデオで見てもらった。そこでは様々な障害を持つ子供たちが、それぞれに対応したサポートを受けながら、スキーやそりを体験していた。嬌声を上げて喜ぶ子供たちの様子を見ながら、深澤さんは感慨深げにつぶやいた。

「こういう発想、こういう感覚が素晴らしいよね。今、これで曲がりなりにもアジアで初めて冬季のパラリンピックをやるわけだけれど、これをどう進めていくのか考えてもらわんとね」

 長野で草分け的存在として、身体障害者スキーの普及や強化に努めてきた深澤さんだが、長野パラリンピックには一切お呼びがかからなかった。障がいを持ちながら一家言ある人物は煙たがられてしまったようだ。

「行政や官僚というのは、それまで身銭を切って下地を作ってきた者たちの苦労を全く知らず、相談にも来ない。あきれたもんだ」

 そうつぶやく深澤さんの横顔は少し寂しげだった。

 

 2010年、心臓の人工弁の働きが悪くなり、72歳で亡くなった。

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スポーツ歴史の検証
  • 宮嶋 泰子 スポーツ・文化ジャーナリスト、(一社)カルティベータ代表理事。1977年にアナウンサーとしてテレビ朝日入社。日本で初の女性スポーツキャスターとなる。ニュースステーションや報道ステーションではリポーター兼ディレクターとして400本以上のスポーツ特集制作を手掛ける。1980年のモスクワから平昌までオリンピックの現地取材は19回。文部科学省中央教育審議会青少年スポーツ分科会や政策評価委員会のメンバーを長年務める。現在もオウンドメディア・カルティベータ他において動画や記事で情報発信中。国連UNHCR協会理事、日本オリンピック委員会広報専門員会副部会長、JVA 理事、JBL 理事などを歴任後、現在は日本パラスポーツ協会評議員、日本女子体育大学招聘教授を務める、2016年度日本オリンピック委員会女性スポーツ賞受賞。