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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

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日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

嘉納治五郎
種をまく国際人

【オリンピック・パラリンピック 歴史を支えた人びと】

2018.10.03

年配の方なら記憶にとどめていらっしゃることだろう。1964年10月23日、東京・北の丸の日本武道館。柔道無差別級の決勝戦を……。

東京大会で初めてオリンピック公式競技となった柔道は軽量級(68kg以下)、中量級(80㎏以下)、重量級(80㎏以上)と無差別級の4階級で争われた。10月20日から試合が始まり、軽量級の中谷雄英、中量級の岡野功、そして重量級の猪熊功と3階級を制し、悲願の全階級制覇へ残るは無差別級だけだった。

立ちはだかるのはオランダの巨漢、アントン・ヘーシンク。1961年、パリで開かれた第3回世界選手権で日本以外の選手として初優勝、すでに世界一の座についていた。

日本柔道界は初のオリンピック、地元東京で世界一の座を奪還したい。思いを神永昭夫に託した。神永はこのときまでに3度、全日本選手権に優勝、打倒ヘーシンクの切り札となっていた。

試合時間は10分。ヘーシンク196cmに対し、神永は179cm、体格では劣るが、闘志は負けていない。双方譲らぬ戦いは、8分過ぎに動いた。神永が体落としにいったところをつぶされ、逆に袈裟固めに押さえられた。もがく神永にヘーシンクの巨体がかぶさり、時間が過ぎていく。9分22秒、日本柔道の夢は断たれた。

1964年東京大会のアントン・ヘーシンク

1964年東京大会のアントン・ヘーシンク

「日本柔道の敗北」。そう受け止めた人は少なくなかった。翌日の新聞各紙もそのように報じている。

しかし、本当に日本の柔道は負けたのだろうか。

あのとき、ヘーシンク優勝に喜んだオランダのコーチたちが土足のまま、会場の畳にあがろうとした。これを見たヘーシンクは、右手を前に出して「神聖な畳の上にあがってはならない」と制した。

3年前の世界選手権でも土足であがったコーチがいた。そのときは止めることができなかった。ヘーシンクは自分を恥じ、「同じことをさせてはならない」と固く思っていたのである。

後年、国際オリンピック委員会(IOC)委員になっていたヘーシンクに聞いたことがある。「柔道は礼に始まり、礼に終わる。嘉納師範の教えです」と。

20代の嘉納治五郎

20代の嘉納治五郎

「嘉納師範」とヘーシンクが言った人こそ、柔道の父、日本オリンピックの父、嘉納治五郎にほかならない。柔道を創始しアジアから初のIOC委員となった嘉納の教えは、アジア初のオリンピックの場で見事に実践されたのだった。

嘉納は、明治という日本が世界に目を開いた時代において、みごとに、先駆けとなった国際人である。

幼少期から英語を学び、柔術の修行を続けて柔道として大成、道場としての講道館を創設する忙しい合間も、語学に磨きをかけた。学習院教授兼教頭を務めた後、1889(明治22)年から1890年にかけて1年4カ月、ヨーロッパに派遣され、教育事情を視察している。28歳から30歳にかけて、自身充実の時代であった。

フランス、ベルギー、ドイツ、オーストリア、スウェーデン、デンマーク、イギリス、エジプトと巡った旅の帰途。日本に戻る船のなかで、こんなことがあった。

乗り合わせたロシア人海軍士官が退屈したのだろう、力自慢を始めた。みていた嘉納が「私が押えつければ起き上がれないよ」というと、「じゃあ、やってみろ」となった。嘉納がその大男を押えると起き上がることができない。何度やっても起き上がれない大男は「勝負しろ」といいだした。そこで立ち会いとなる。

ロシア人士官が嘉納の背中を両手で抱え、左右にねじろうとしたとき、タイミングをはかった嘉納が腰投げと背負い投げの中間のような技で大男を投げとばした。そして、頭から落ちそうになったところを、相手の手をもって支え、怪我しないよう配慮した。見ていた乗船客から大きな拍手があがったという。

まさに「柔よく剛を制す」「小よく大を制す」と言いたいところだが、「頭から落ちそうなところを、手をもって支える」ことこそ柔道の教えである。身をもってそれを実践した嘉納は、旅の記録としてつけていた英文日記にこう書いた。「そのおかげで、ロシア人海軍士官と仲良くなり、下船するまでいろいろと語り合った」。スポーツが持つある種の力の体現である。

精力善用 自他共栄

精力善用 自他共栄

帰国後、熊本の第五高等中学校(現・熊本大学)、東京の第一高等中学校(現・東京大学)の校長を経て、東京高等師範学校(現・筑波大学)校長となった嘉納は、全校運動会や全校参加の長距離競走大会、水泳合宿などを実施、運動を奨励する傍ら、清国(現・中国)から留学生を受け入れた。彼らにも柔道をはじめ運動を推奨、留学生には作家の魯迅(本名・周樹人)などもいた。それも理由のひとつとなって、1909年国際オリンピック委員会(IOC)委員に推薦された。

IOC委員として、オリンピックや総会出席のためにヨーロッパを歴訪した嘉納は、たびたび柔道の形や技を披露し、「精力善用」「自他共栄」という柔道の精神を説いている。

やがて、嘉納はヨーロッパに柔道普及の種をまき始める。皮切りはイギリス。1920年、アントワープ大会に向かう途中、ロンドンを訪問、このとき講道館から会田彦一という若い柔道家を連れていった。会田は東京高師の教え子でもある。

当時ロンドンには「武道会」というカルチャースクールのようなサークルがあった。駐在日本人や日本に興味を持つイギリス人を対象に柔術や剣術のほか、茶道や華道なども教えた。柔術の師範は小泉軍治と谷幸雄。ふたりは嘉納が若い頃に修業した天神真楊流を学んでおり、ひと目みて彼らの実力を判断した嘉納は、講道館二段を授与。2人を窓口に、会田がイギリスに柔道を広めていく。会田のイギリス滞在は2年半、ロンドンは柔道普及の海外拠点となった。

会田は嘉納の勧めにより、ドイツに1年、ついでフランスに渡って指導を続けた。ドイツでは留学中の講道館四段・北畠教真、フランスでは講道館から派遣された石黒敬七(のち八段)や川石酒造之助(のち七段)が、小泉や谷のように普及の推進役となった。

1936年のIOC総会で1940年大会東京招致を成功させた直後の嘉納

1936年のIOC総会で1940年大会東京招致を成功させた直後の嘉納

イギリスやドイツ、フランスに柔道が根付いた理由は、もちろん彼らの努力によるが、IOC委員である嘉納のネットワークとその人間性にも大きく頼った。嘉納はヨーロッパに行くと、ユーモアを交えて柔道を解説、形を披露しては“種まき”に務めた。

戦後、もちろん嘉納が亡くなった後の話だが、フランス柔道連盟から請われて渡仏、指導にあたった男がいた。道上伯という。戦前は旧制高知高等学校(現・高知大学)や上海にあった東亜同文書院で柔道を指導した講道館七段。ただし、講道館の枠組みから外れて指導を続けたため、日本ではあまり存在が知られていない。

ワインの輸出など貿易で身を立てて、パリに「道上柔道学校」を開校。多くの弟子を育てた。ヨーロッパからアフリカ、アメリカなど計36カ国で指導。1955年にオランダで見つけた逸材こそ、ヘーシンクである。道上は柔道の技術を教え、筋力トレーニングによる体力づくりを伝授。同時に、「礼に始まり、礼に終わる」柔道の精神をたたき込んだ。昔、自分が学んだ嘉納の教えである。

あの「日本柔道が押さえ込まれた」日本武道館、勝利に沸きかえるオランダ選手団にあって、1人厳しい表情で道上は立ち尽くしていたと聞く。胸に去来した感慨とは、どんなものだったろう。

東京大会で、柔道の公式競技化を推進したのは当時の国際柔道連盟(IJU)会長で講道館館長の嘉納履正。嘉納治五郎の息子である。覆正を支え、バックアップしたのは当時のアベリー・ブランデージ会長をはじめとする古参のIOC委員たち。29年間の長きにわたってIOC委員を務め、1940年東京大会招致に文字通り、死力を尽くした嘉納へのはなむけだったといわれている。

1964年、日本は4階級すべてに金メダルを獲ることはできなかったが、1972年ミュンヘン大会以降、柔道はオリンピックに欠かせない競技となった。そして、1988年ソウル大会での公開競技を経て、女子柔道が公式競技となったのは1992年バルセロナ大会から。この女子柔道も、実は嘉納が始めたものである。

1893年、芦谷スエ子に初めて入門を許し、その後、講習会を重ね、1926年講道館に女子部を置いた。「体力のない女子の柔軟さのなかにこそ、真の柔道が受け継がれる」。女子がスポーツをするなど「もってのほか」と言われた時代、嘉納の柔らかい発想に注目していい。オリンピックの創始者、ピエール・ド・クーベルタンが女子の参加を認めたくなかったことと比べても特筆されよう。

2016年、ブラジルのリオデジャネイロで柔道場を見学したことがあった。笑顔の嘉納の写真が道場を見守るように飾られ、男女一緒の子どもたちは、写真に礼をしてから稽古を始める。稽古が終わると、また写真に頭を下げて退出していく。

いま、204カ国・地域が国際柔道連盟に加盟し、世界各地の柔道場でこうした光景を目にすることができよう。フランスでは56万人、ドイツでは18万人が柔道を学び、本家・日本の16万人を凌駕する。

あの1964年10月23日、日本柔道は決して敗れたわけではない。嘉納治五郎がまいた種は「世界のJUDO」として、大輪の花を咲かせている。

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スポーツ歴史の検証
  • 佐野 慎輔 尚美学園大学 教授/産経新聞 客員論説委員
    笹川スポーツ財団 理事/上席特別研究員

    1954年生まれ。報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等も務める。近著に『嘉納治五郎』『中村裕』(以上、小峰書店)など。共著に『スポーツレガシーの探求』(ベ―スボールマガジン社)『これからのスポーツガバナンス』(創文企画)など。