Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

セミナー「子供のスポーツ」

モーグルに愛された二人──里谷多英と上村愛子

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.04.11

 コブだらけの急斜面をスピードに乗って滑り、途中に2 度のエア(ジャンプ)をこなすフリースタイルスキーのモーグル。ターン、エア、タイムの3要素の合計点で競う。新しい潮流として冬季オリンピックに正式採用されたのはフランスで開催された1992年アルベールビル冬季オリンピックだった。この競技に挑んだ日本のトップ女子選手二人の軌跡を振り返った。

シンデレラガールの誕生

1998年長野冬季オリンピック、里谷多英の大技コザックが決まる

1998年長野冬季オリンピック、里谷多英の大技コザックが決まる

 1998年、日本で2度目の冬季オリンピックが長野県を舞台に開催された。ノルディックスキーのジャンプやスピードスケートなど、男子選手にメダル獲得の期待が高まっていた大会だが、フリースタイルスキー女子モーグルに出場した21歳の里谷多英が、見事に日本の女子選手として史上初の金メダルを獲得した。

 2月11日、会場の飯綱高原の空は青く晴れ渡っていた。予選を11位で通過した里谷は、白と赤のウエアに身を包み6番目で決勝レースをスタートした。前年の19977月に病気のために54歳の若さでこの世を去った父昌昭さんの写真を左胸に忍ばせ、耳には亡くなる直前に父からもらった金のピアス。長い間コーチでもあった昌昭さんとともに滑り降りたのだろう。里谷は「お父さんが見ていてくれると思っていた。ドキドキしていなかった」と滑り出す前の心境を語っていた。

 スピードに乗って滑り出すと、最初のエアは左右に板を振ってから両手足を広げる「ツイスタースプレッド」を繰り出した。自慢のスピードは衰えず、第2エアは大きく開脚して高さのある「コザック」を披露し終盤も高速ターンでまとめた。エア得点では銀メダルの選手に劣ったものの、確かなターン技術でコブの間をくぐり抜けた速さが里谷の得点を支えて頂点を極めた。

 その日の夜に長野市の中心部で行われたメダル授与式では多くの日の丸が打ち振られた。金メダルを胸にした里谷は「重いですね」と実感たっぷりに話し、昌昭さんがこの日のために用意していたという日本酒を「家に帰って飲みます」と感慨に浸っていた。

 里谷がスキーを始めたのは4歳のころだった。指導するのは父昌昭さん。独学でスキーを覚えた父の夢は娘をオリンピック選手にすることだった。冬は札幌市の手稲山スキー場に通い詰めた。大人の男性でも腰が引けるようなでこぼこの急斜面でも、父は娘を問答無用で滑らせた。コブを縫って滑るために必要な高い滑走技術はこうやって培われていった。夏場は山道の走り込みで鍛え、父は自転車で伴走した。

 小学6年生だった1989年。全日本フリースタイル選手権の女子モーグルに初出場で優勝を飾った。1992年からはモーグルがオリンピックで正式採用される。目標は次第に明確になっていった。1998年には長野で冬季オリンピックが開催されることが決まり、全日本スキー連盟(SAJ)の強化部門での体制も整備されていった。里谷は1994年リレハンメル冬季オリンピックでは11位だった。このあと、日本チームに米国人コーチが招へいされる。こういった支援も、里谷を筆頭に日本選手を成長させた。

大舞台で力を発揮

 意外だが、北米や欧州を中心に各地を転戦して行われるワールドカップ(W杯)での初優勝は長野冬季オリンピック後の19983月。翌シーズンのW杯でも勝利を挙げ、東海大卒業後はフジテレビに就職した。しかし、急成長を遂げていた後輩の猛追や自身の故障などもあり、次回2002年のソルレークシティー冬季オリンピックへの視界は決して良好ではなかった。それでも大舞台で力を発揮するのが里谷の真骨頂だ。

 金メダルから4年後のシーズンは、オリンピック前のW杯では第5戦で4位となったのが最高だった。それでも前回女王は「わたしはオリンピックに合わせて頑張っている。だから大舞台に強いのも不思議ではないと思っている」と言い切っていた。さらにこのときは直前合宿での秘策で本番に備えた。合宿地は標高3000mの高地、コロラド州スノーマス。オリンピックのコースはコブの間隔が狭いという情報を入手し、そっくりの練習コースを作った。しかも、本番コースの262mよりも20mほど全長を伸ばした。オリンピックのコースを短いと感じるようにするためだった。

 元々ターンの安定感とスピードには定評のあった里谷。オリンピック本番ではメダル獲得をターゲットに定めて、エアの難易度を下げる作戦で決勝レースに臨んだ。新しい技として導入を検討していたスキーを左右に4度振る「クワッドツイスター」を封印し、予選でトップの得点を挙げたターンと滑り降りる速さに集中した。第1エアは長野でも取り入れた「ツイスタースプレッド」で、第2エアはスキーを3度振る「トリプルツイスター」。エアは無難にまとめ、5人を残してトップに立った。最終的には人に抜かれたものの、銅メダルに輝いた。個人種目としては日本選手初の2大会連続メダル獲得だった。「長野では父の力をもらったが、今回は自分の力で滑り降りた。(メダルの)色に違いはあるが、同じくらいうれしい」と振り返ったのが印象的だった。

「幸せな競技人生」

 2005年2月に東京都内のクラブで泥酔して警察に保護される不祥事を起こした。2006年トリノ冬季オリンピックに向けては、SAJの指定選手を外れて個人資格でW杯に参加する道を選択したが、本番では15位に終わった。33歳で迎えた2010年バンクーバー冬季オリンピックは約1カ月前の練習で腰を痛め、ぶっつけ本番の出場だった。スピートに乗った果敢な滑りを見せたものの、第2エアの着地で転倒して19位に沈んだ。

 5大会連続でオリンピック出場を果たした里谷は20131月に現役引退を表明した。「12歳で初めて大会に出場してから25年間、諦めることなく挑戦し続けることができ、とても幸せな競技人生でした」と締めくくった。

長野でオリンピックにデビュー

 里谷が金メダルを獲得した長野冬季オリンピックで、将来を嘱望される選手がオリンピックにデビューを果たしていた。当時、長野・白馬高3年の上村愛子。里谷の後継者であり、ライバルに成長していく18歳の若手は地元での大会で7位入賞を果たした。里谷とは全く違うきっかけでモーグルの世界に飛び込み、日本の第一人者へと成長した。

 上村は1979年兵庫県伊丹市で生まれた。上村が2歳の時、両親がペンションを経営するために長野へ移住し、1986年から白馬村で育った。小学生になるとアルペンスキーを本格的に始め、白馬中ではスキー部に入部した。ところが、部活動で折り合いが合わずに退部してしまった。中学2年の1月、「スキーの本場に行けば刺激になるかもしれない」という母圭子さんの提案でカナダ西海岸への一人旅を敢行した。そこでスキーの盗難に遭う。日本人の知り合いに「モーグルやるなら板をあげる」と言われ、これがモーグル転向のきっかけとなった。白馬高スキー部にはモーグル選手として入部し、再び日本のトップ選手を目指して練習に励むようになった。このシーズンのW杯最終戦では初出場で3位入賞と、能力の高さを周囲に示した。

 そして1998年の長野冬季オリンピック。予選を13位で通過した上村は地元の大声援に包まれながら決勝レースをスタートさせた。第1エアのコザック、第2エアのツイスタースプレッドをしっかりとまとめて7位に食い込んだ。この経験がオリンピックでの表彰台を夢見る上村の出発点となった。

回転技の勝負に

 モーグルと出会った思い出の地、カナダ・ウィスラーでの2001年世界選手権では日本勢初となる銅メダルを獲得し、世界でも注目される人となった。しかし、飛躍が期待された翌年のソルトレークシティー冬季オリンピックでは、予選は日本勢トップの4位で通過したものの、決勝では思ったように得点が伸びずに6位に甘んじた。そこには「スピードを抑えていけばもっと高得点が出たかもしれない。でも無難には終わりたくなかった」と話す上村がいた。

 続く2006年トリノ冬季オリンピックは大きな転機となった大会だった。モーグル競技には「エアはスキー靴が頭よりも高い位置になってはいけない」という規則があったが、ソルトレークシティー冬季オリンピックで長野の覇者、マックス・モズリーという男子の米国人選手が軸を斜めにして前方回転しながら1回ひねる「ディナロール」という規則違反すれすれの技を披露した。回転系のエアは爆発的に広まり、FISも解禁せざるを得なくなった。トリノは初めてエアの回転技で勝負する大会となった。

 上村もオリンピックを翌シーズンに控えた20053月に体の軸を斜めにして回転する「7o(セブンオー)」をほぼ完成させていた。だが、ライバルたちも次々と回転技を習得しアドバンテージは縮まった。オリンピックで5位に終わると「遠いなあ、メダルは。そろそろもらってもいいんだけど」とつぶやいた。

「なんで一段一段」

2014 年ソチオリンピックで笑顔を見せる上村愛子

2014 年ソチオリンピックで笑顔を見せる上村愛子

 トリノが終了したその秋、フィンランド人のヤンネ・ラハテラ氏がナショナルチームのヘッドコーチに就任した。力強い滑りでコブ斜面をすり抜けるターン技術でオリンピックの金メダルを獲得した新コーチは、ターンの重要性を説いた。根本から滑りを変える荒療治で上村は強さを増した。2007-08 年シーズンはW 杯で5勝を挙げて種目別優勝を飾り、2009年3月の世界選手権では初めて優勝を手にしていた。スタイルを変え、30歳の円熟期で迎えた2010年バンクーバー冬季オリンピックだったが、表彰台にあと一歩届かない4位。初出場だった長野の7位から大会ごとに一つずつ順位を上げてきたものの「なんでこんな一段一段なんだろう」という言葉に上村の無念さがにじんでいた。

 「心と体の疲労を取りたい」と翌シーズンを休養に充て、選手活動を休止した。だが「引退する理由を探していたが、見つからなかった」と2014年ソチ冬季オリンピックに向けた活動を再開した。ソチでは予選1回目で7位となり順当に決勝に進出。決勝1回目を9位、2回目を6位で通過した。6人による最終3回目。スピードに乗った滑りで第1エアは水平に360 度回転する「ヘリコプター」、第2エアは後方空中回転の「バックフリップ」と、前回のバンクーバーと同じ技を繰り出して見せた。「攻められたので満足度は高い」と話した上村だったが、結果はまたしても4位だった。ついに表彰台に上がることはなかったが、冬季オリンピックで日本選手初の5大会連続入賞し「前回よりすがすがしい」と結んだ。上村はこのシーズンを最後に現役引退を表明した。

関連記事

スポーツ歴史の検証
  • 江波 和徳 共同通信社編集局スポーツ企画室委員。1960年山形市生まれ、筑波大卒。共同通信社入社後、福岡支社運動部、広島支局でプロ野球を担当。1993年から東京本社運動部で水泳、スキーなど夏冬のオリンピック競技を主にカバーし、1998年長野冬季オリンピックでは2年前から現地で取材を展開した。98年夏からロンドン支局員として国際オリンピック委員会(IOC)や、各種国際スポーツ大会を4年にわたってカバー。帰国後は運動部デスク(次長)として記事出稿を行った。2010年からニューヨーク支局で支局次長として勤務。本社運動部長を経て、21年東京オリンピックでは編集局企画委員として取材班全体の調整に携わった。