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平野歩夢とショーン・ホワイト──レジェンドからアユムの時代へ

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.02.14

 この2人の名をなくして、オリンピックにおけるスノーボード史は語れない。男子ハーフパイプで歴史に残る名勝負を演じてきた2022年北京オリンピック金メダルの平野歩夢と、3度オリンピック制覇のショーン・ホワイト。ホワイトは北京オリンピックで競技生活に幕を閉じ、新時代は平野へと受け継がれた。数々の伝説を残した2人の軌跡をたどる。

平野歩夢

 新潟県村上市に生まれた平野3兄弟の次男。「夢に向かって歩んでほしい」との思いで名付けられたように真っすぐ育ってきた。兄英樹の背中を追って4歳からスケートボード、スノーボードを始めた。兄の滑りに追い付こうと必死で練習したのが原動力。小学4年で大手メーカー「バートン」と契約し、海外遠征に回るようになったのが大きな転機になったと聞く。

 初遠征から一緒に回っていたプロスノーボーダーの降旗由紀さんは「海外に行って急にずばぬけて高さが出てきた。それもショーンに引けを取らないぐらい。そこで一気に火が付いた。見ているとショーンもそうだったが、無駄な練習は一切しない」と証言する。恐怖心を感じさせないほど、果敢に大技に挑戦してことごとく成功させるようになったという。努力が実を結んで才能が一気に開花し、14歳で出場した世界のトッププロが集まる招待大会「冬季Xゲーム」でホワイトに次ぐ2位。史上最年少で銀メダルを獲得し、一躍脚光を浴びる存在となった。

 初出場した2014年ソチオリンピックが日本のオリンピック史に名を刻む第一歩だった。平岡卓と競い合うように3回転技に成功。荒れたコースで転倒者が続出した決勝も安定感抜群の滑りを披露し、2位で表彰台に立った。幼い頃から足が固定されないスケートボードで培った技術が当時から生きていたのだろう。「結果を残せば歴史にも残ると思っていた」と堂々たる発言で、152カ月で日本の冬季オリンピック史上最年少メダルをつかんでみせた。

 4年後の平昌オリンピックで頂点を目指す道のりは順風満帆ではなかった。スノーボード界は別の未成年選手の飲酒などの不祥事が相次ぎ、自身の活動にも影響が及んだ。オリンピック前年の20173月には「USオープン」で転倒し、左膝や肝臓を損傷した。位置が数cmずれていたら命を落とす危険性があったと言われるほどの大けが。3カ月離脱して「本当に感覚を取り戻せるのか」と葛藤したが、一回り大きくなって復活を果たす不屈の精神があった。オリンピック直前のXゲームでは、軸をずらして縦2回転、横4回転する「ダブルコーク1440」の連続技を世界で初めて試合で決めて優勝。その時点では平野にしかできない演技構成を手に入れ、万全の状態で乗り込んだ中で立ちはだかったのがレジェンドだった。

ショーン・ホワイト

2006年トリノ冬季 オリンピックのスノーボード男子ハーフパイプで優勝したホワイト

2006年トリノ冬季 オリンピックのスノーボード男子ハーフパイプで優勝したホワイト

 1986年に米カリフォルニア州サンディエゴに生まれ、生後間もなく心臓の病気を患ったが2度の手術で克服。兄の影響を受けて6歳で競技を始めた。13歳でプロに転向。Xゲームで連勝街道を突き進むなど一気にスターダムを駆け上がった。ホワイトに触発されて白銀の世界にのめり込んだ日本の若者も少なくなかっただろう。19歳で初出場した2006年トリノオリンピックでは抜群の高さを誇って独壇場。10点満点中、審判員全員が9点以上を付ける圧巻の金メダルだったが、ホワイトにとってはまだ序章に過ぎなかった。

 2010年バンクーバーオリンピックでも、世界中の選手の挑戦を受けながら寄せ付けない。前年に軸を斜めにした縦回転を加える「ダブルコーク」の新技を披露。周囲も習得に励んだが、ホワイトは本番1回目の試技でダブルコークを2連続で決めた。1回決めることすら難易度が高い中で差1回せつけ、2回目を前に2連覇が決定。だが、これで終わらないのがカリスマの真骨頂だった。ウイニングラン。ダブルコークとは別に独自開発した、縦回転の強い「ダブルマックツイスト」で世界を震撼させた。限界を押し上げる革命を引き起こし「技は望んだ分、進化できる。誰にもまねできないようなことができた」と誇る。米コロラド州には個人用のパイプを持ち合わせ、現在に至るまでの技の高難度化を常に促してきたのはこの男だったに違いない。

 ただ、平野が初出場した2014年ソチオリンピックで3連覇に挑んだが、初の屈辱を味わった。自身が進化を後押ししたが故に、ロシア生まれのスイス代表ユーリ・ポドラドチコフが横回転数の増えた「ダブルコーク1440」を開発。2回目で平野に勝つための大勝負に出て成功させ、金メダルを手にした。ホワイトはミスが重なり、初めて表彰台すら上がれず4位。「今日は自分の日じゃなかった」と無念さをにじませたが、ここで終わらないのが先駆者としてのプライドだ。

 今も語り継がれる平野との名勝負が生まれたのが4年後の平昌オリンピック。平野がポドラドチコフを超えてダブルコーク1440の連続技をひっさげて臨んだ大一番だ。1回目はホワイトがダブルコーク1440を決めて首位に立つ。ただ、2回目に平野がその連続技を披露する圧巻の演技で逆転。平野の優勝かと思われたが、ホワイトは大会前から連続技に挑むと心に決めていた。運命の3回目。初挑戦で平野とほぼ同じ構成のルーティンを完遂する。しかも回転方向など技の多彩さが評価され、2.50点上回る。王座奪還が決まると興奮を抑えられずに喜びを爆発。そしてむせび泣いた。「トップを取り返そうと必死に練習してきた」と言えるスーパースターには31歳とは思えない底力があった。前年10月には顔面を62針縫う大けがを負いながら、消えることがなかった王座奪還への情熱。だからこそ、平野も敗戦を受け入れ「目標がなくなるより、さらに上がいることは自分としてはいいこと」と次への原動力にできたのだろう。

北京オリンピック

 激闘を終えた2人は奇しくも、目指す道のりが重なった。東京オリンピックで新種目に採用されたスケートボードへの参戦。ともに幼少期からスノーボードと並行して取り組んできた競技で、2019年世界選手権で共演するなど、新たな挑戦が開拓者2人の心を突き動かした。

 新型コロナウイルス禍もあってホワイトは断念したが、平野は信念を貫いた。「自分にしかできない挑戦」。そう表現する道のりに強烈な自負をにじませ、東京オリンピック延期が決まってもぶれることはなかった。夏冬オリンピックの間隔はわずか半年。スノーボードの準備期間が短くなるリスクを背負ってでも、一度決めたことは譲らなかったからこそ、平野はさらなるステージへと階段を上ることができたのだろう。

 2021年8月に日本男子では史上2人目となる夏冬両オリンピック出場を果たし、息つく間もなく雪上へと向かった。その1年前の9月からスイスでできる限りの準備を整えた。平昌オリンピック銅メダルのライバル、オーストラリア代表のスコット・ジェームズが得意で、横回転技の入り方として最も難しい「スイッチバックサイド(逆スタンスで進行方向と逆向きに踏み切る)」に取り組もうとした。しかし「人がやっているものをやっても面白くない」との発想こそが平野らしい。

 照準を定めたのがどちらも世界で誰も完成させていない斜め軸に縦3回転、横4回転する「トリプルコーク1440」と、横4回転半技。トリプルコークはホワイトでさえ「空中で3回転もするなんて見るだけでも驚きだ」と感嘆する超大技だ。ホワイトも2013年に1度トライしたものの、激しく転倒して断念したという。命に危険が及ぶ可能性があるトリックでも、平野はエアマットの練習施設で入念に体に染みこませた。コーチや他の選手、誰もが驚く練習量で、少しずつ自分の感覚をつかみ、2021年10月にスイスの雪山で初成功。12月のプロ大会デュー・ツアーでは実戦でも世界で初めて決め、出し惜しみすることなく披露する姿には自信と先駆者の自負が垣間見えた。

2022年北京冬季オリンピック 。決勝で超大技を繰り出す平野

2022年北京冬季オリンピック 。決勝で超大技を繰り出す平野

 迎えた本番。平野は予選から全力で1位を取りに行った。決勝の滑走順は予選の順位と逆で、最終滑走は全員の試技を見終わった後に滑ることができる特権。平昌で最後の最後にホワイトに抜き去られた反省を生かした。完成度の高い演技で譲らず、悲願の頂点にかける思いがひしひしと伝わってきた。

 ただ、決勝でも再び試練が訪れた。2回目でトリプルコーク1440を入れた圧巻のルーティンを完遂しながら、回転数で下回るジェームズの点数に届かない。明らかに採点に疑問符の付く展開。ぐっと怒りを押し殺し、鬼気迫る表情で3回目に向かう平野が目の前を通り過ぎた。正直、また銀メダルなのか、と思ったのは私だけではなかったはずだ。上回るには、実戦で試したことのない横4回転半の新技を出すしかないのか……。いちかばちかの選択をすると思ったが、平野は違った。パイプの頂上へと戻るリフトで思案。映像を見直し、決めた。自分を信じ、同じ構成で貫き通す。大会前の米国合宿でも「異常なぐらい一人で練習した」と、1日に通常の選手の倍近い69回もトリプルコークだけを打ち込み、磨き上げた技。負けるはずがないと言わんばかりの風格を漂わせ、最後の滑走に飛び出した。

 高さ、着地のスムーズさ、完成度、どれを取っても文句なし。雲一つない青空に飛び上がった平野は見るもの全員の度肝を抜き、各国の選手、関係者からの拍手は鳴り止まない。本人は感情をあらわにすることなく頂点の味をかみしめ「信じて良かった。過去の自分より強くなった」と威風堂々。取材するこちらも胸が熱くなったと同時に、同じ日本人としてその場にいられたことが誇らしかった。

 自身が金メダルを目指すきっかけになった35歳のホワイトは4位で、この大会限りで現役を引退することを表明。膝や腰に古傷を抱えながらも自らを奮い立たせて戦い抜き、最後は平野のもとへ歩み寄って抱き合った。独創的な技を編み出し、競技の普及と発展に大きく貢献してきた先駆者は「とてつもないことをやってのけた。真のアスリートだ。誇りに思う。アユムの時代が来た」と、安心したかのようにスノーボード界を託した。宿敵の魂を受け継ぎ、これから先も平野が歩むであろう自分にしかできない道を見るのが楽しみでならない。

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スポーツ歴史の検証
  • 山本 駿 共同通信社運動部記者。1988年、岐阜市生まれ。岐阜高校、一橋大卒。2011年入社。和歌山支局で2年間、事件・事故や災害取材などを経験。大阪運動部、広島支局ではプロ野球阪神と広島を担当。2018年12月に東京本社運動部に異動し、サッカーや五輪競技を中心にカバー。東京オリンピックではレスリングとバドミントン、東京パラリンピックでは車いすフェンシングとバドミントン、北京オリンピックではスノーボードを取材。サッカーのワールドカップ・カタール大会も経験し、現在は陸上、スノーボードを中心にカバー。