Search
国際情報
International information

「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

知る学ぶ
Knowledge

日本のスポーツ政策についての論考、部活動やこどもの運動実施率などのスポーツ界の諸問題に関するコラム、スポーツ史に残る貴重な証言など、様々な読み物コンテンツを作成し、スポーツの果たすべき役割を考察しています。

未知の世界に挑んだ先駆者…冬季オリンピック初出場の苦闘

【冬季オリンピック・パラリンピック大会】

2023.05.09

「ともかく、私たちは根本ができていない」「日本では味わったこともない恐怖を抱いた」「どうしたら転ばずにすむかと考えるのに頭がいっぱい」「無理であろうということは既にわかり切っていた」「スキーをはじめてやっと十年あまり、まして正式な競技を知っている人さえまれな時代…」――これは、日本で初めて冬季オリンピックに出場した選手たちが、その貴重な体験を振り返って残した回想の一節だ。100年近くも昔になる1928年のこと。日本のウインタースポーツはまだ黎明期にあった。小舟で大海に乗り出そうとする冒険家のごとき思いを抱いて、先駆者たちは未知の世界へと挑んだに違いない。

1928年サンモリッツ冬季大会の競技会場全景

1928年サンモリッツ冬季大会の競技会場全景

 1928年2月、第2回となるオリンピック冬季大会は、スイス・サンモリッツで9日間にわたって開かれた。日本は、2回目の大会にして早くも、初の代表選手団を送り込んだ。監督の廣田戸七郎と選手6人。高橋昴、麻生武治、竹節作太、伴素彦、永田實、矢沢武雄の面々は、4人が大学生、2人が大学を出てさほど間のない20代のOBで、いずれもノルディックスキーの選手である。

 一行は、オリンピック前年となる1927年の1217日に東京駅を出発し、下関から船で釜山に渡って、そこから長い鉄路の旅を始めた。ソウル、奉天、長春、ハルビンを経てシベリア鉄道に入り、一週間をかけてモスクワに到着。さらにワルシャワ、ベルリン、チューリヒと旅して、目的地のサンモリッツに着いたのは1928年の18日だった。およそ3週間の旅程。シベリア鉄道での1週間を、監督の廣田は「汽車の中でキャムプ生活(それも近頃の様な贅澤なものではない)をして寂涼な野を駆けるのであった」と書き記している。海外遠征をして大会開催地に行き着くまでの行程さえ、ひどく過酷なものであったというわけだ。

 出発までにも苦労があった。派遣費がどうなるか、はっきりわからないまま、選手もそれぞれに高額の負担金を用意し、往路の費用をかき集めて遠征に臨んだのだ。のちには政府からの補助金が出てことなきを得たが、当時、欧州に遠征するには、行くということだけでも幾多の困難がついて回ったのである。

 もっとも、遠征や資金調達の苦労は困難のほんの一部分に過ぎなかった。選手たちの前には高い壁が立ちふさがっていた。十分な経験も知識も持たないまま、いきなり、冬季競技の本場で開かれるひのき舞台に立たねばならなかったのだ。

新潟県を中心に一本杖スキーの技術を指導したレルヒ少佐

新潟県を中心に一本杖スキーの技術を指導したレルヒ少佐

 日本にスキーが初めて入ってきたのは1911年。オーストリアから駐在武官としてやって来たレルヒ少佐が、新潟県で陸軍士官らに教えたという第一歩はよく知られている。そこからまだ17年しかたっていないところで、冬季オリンピック初出場の運びとなったのである。

 1922年、大日本体育協会にスキー部が設けられ、翌1923年に第1回の日本選手権が小樽で開かれた。全日本スキー連盟の結成は1925年。国際スキー連盟(FIS)への加盟は1926年。日本のスキーは歩み始めたばかりだった。そんな中でのオリンピック出場には、いったいどれほどの重圧があっただろうか。以前から欧州留学していた麻生以外は、初の海外遠征どころか外国旅行さえ初めてだった選手ばかり。彼らにしてみれば、これはもう想像を絶する大冒険だったに違いない。サンモリッツ大会には25ヵ国から464選手が参加した。日本は欧米以外からの唯一の参加国だった。「日本では雪が降るのか」と聞かれることもあったようだ。ヨーロッパ屈指のスキーリゾートに集まった選手や関係者の目には、予想もしない珍客の到来と映ったろう。

 現地に到着後、選手たちはまず、イタリアのコルチナ・ダンペッツォに赴いた。世界学生冬季競技大会が開かれるのを知り、飛び入りの形で参加したのである。なにしろ、ルールもよく知らないままの国際競技初見参とあって、少しでも経験を積みたかったのだろう。当たって砕けろとばかり、彼らはクロスカントリー、アルペン、ジャンプと手当たりしだいに出場した。ほとんど経験したことのないアルペン種目をクロスカントリー用のスキーで滑って、周りの選手をあきれさせたというエピソードが、当時の日本勢の様子を物語っている。それでも、クロスカントリーの16kmレースやアルペンの滑降でそれぞれ4位と6位に入ったのは予想外の好成績と言っていい。ジャンプやアルペン回転ではさんざんだったとはいえ、この結果は彼らを大いに勇気づけたと思われる。

 だが、本番のオリンピックは甘くはなかった。クロスカントリー50kmで永田が24位に入ったのが日本勢の最高順位。このレースでは高橋が25位、竹節が26位だった。同18kmでは矢沢が27位、竹節が31位。ジャンプは伴が最下位の38位で、ノルディック複合に至っては、出場した竹節と麻生がともに途中棄権、記録なしに終わるという有様だった。50kmの優勝タイムが4時間5203秒だったのに対して、永田の記録は6時間0224秒。およそ1時間10分という絶望的なタイム差が、初出場の苦闘を如実に示している。

 「國を立つ時以来、之の出場した事のない、五十基レース(50kmレース)に出場する事の無理であらうと云ふ事は、既に分かり切つた事であつた様に思はれます」

 これは、その最高順位をマークした永田が、「スキー年鑑」に書いた回想の冒頭。それまで国内では30kmまでしか経験していなかったのだから、いきなり50kmで好成績を出せるはずもない。「終り迄走り通す事が出来るかどうかという事が、第一の問題でした」との記述からは、選手たちの悲壮な覚悟がうかがえる。

 竹節は、ノルディック複合のジャンプに臨んだ心境を、後年の自著でこう書き残している。

「私などは、どうしたら転ばずにすむだろうか、と考えるのに頭が一杯である」「私はサン・モリッツに来て、ジャンプを始めたという駆け出しである…無謀も甚だしい…止められるものなら止めたいと思った」

 当時の日本のジャンプは、25m程度の記録が最高というレベル。そんな中で、いきなり60m級のシャンツェ*1に立たされた恐怖を、竹節は率直に語っている。

「日本のジャムプのふるはぬ理由は何であるかと申しますと、それは先ず第一にジャムプにとつて一番大切なサッツ*2が悪い事に歸因(きいん)して居ります」

「外國人のサッツに比べると私達のは、サッツと云へないかも知れません…とも角、私達はジャムプの根本が出来てゐないのであります」

 ジャンプ競技に出場した伴が、「スキー年鑑」に寄せたオリンピック出場の感想も、率直な反省に満ちている。一番の基本ができていないのだから、一からやり直さなければならない。そのこともまた、本場の競技を実際に味わったからこそ、骨身に染みてわかったのである。それまでは、そんなことさえもわからなかったというわけだ。

 この結果は当然と言わねばならない。前述したように、日本にスキーが伝えられて、わずか17年後のことなのだ。経験を積んだ指導者はおらず、知識や情報の蓄積もない。いわば見よう見真似の我流で、いきなり世界に挑んだのである。もちろん最新の用具も手に入らなかった。当時、欧州で使われていたヒッコリー*3製のスキーもなく、耐久性に劣る国産のサクラ材のスキーを30台も持ち込んで密輸を疑われ、危うく多額の関税を取られそうになったというエピソードも、世界との差がいかに大きかったかを示している。

 永田の回想には「私等が彼の國の書によつてやつて来た事が間違つてゐなかつた事は意を強ふした次第」の一節がある。やってきたことは正しかったという趣旨なのだが、裏を返せばそれは、書物による机上の知識のみで未知のテクニックを学び、身につけねばならなかったということだ。

  だが、先駆者たちは打ちのめされてばかりはいなかった。本場の競技、それと自分たちとの絶望的な差は、かえって彼らの心を燃え立たせた。屈辱と失望が「次」を目指すための闘志へと変わったのである。

  永田はこう書き残している。「レルヒ氏によつてスキーが傳へられて、未だ日浅い、我々がただちに第一流に漕ぎつけんとするは難事であると云ふよりはむしろ、不可能な事で、一歩一歩先ず目指すところは中歐に向つて之に進まねばならぬでせう」

  永田は、10位に入ったドイツ選手と自らの記録差が28分あまりで、1kmにつき34秒ほどタイムを縮めれば追いつけると指摘。「今後四年間に於て一基に付き、云はば之の三四秒と云ふ丁度の短縮をする事が出来たならば先ず良いと云ふべきではないでせうか」と結論づけている。頂点に君臨する北欧勢に一気に追いつこうと考えるのではなく、まずは二番手グループに肩を並べる努力をすべきだと冷静に分析して、今後の目標を具体的に見据えているというわけだ。

「私達はジャムプの根本ができていない」と痛烈な自己批判をした伴は、さらにこう続けている。

「もう一度、ごく小さい(だい)から出直さねばなりません。そこでサッツをマスターしてから、進まねばなりません」

「サッツの獲得、それが第一の必要な事だと思ひます。我々は、目標をサッツにとつて、距離を重に目的にして當分進まねばなりません」

「日本のジャムプはあまりに消極的なやり方をして居りました。もっともっと積極的な飛び方をせねばなりません」 

 きわめて具体的かつ実際的な反省であり、指摘である。まず第一に、我流を脱しなければならないというのが彼の考えだった。本物の競技を目の当たりにしたからこそ、それが身に染みてわかったに違いない。全日本スキー連盟の会長を務めていた稲田昌植は、スキー年鑑に寄せた「オリムピックスキー選手の歸朝(きちょう)を歡迎す」の一文で、このオリンピック参加の目的は、勝敗を争うためだけでなく、「之れによつて我國のスキー界が世界に覇を唱へんが爲めに精進する目標を得んとするものであつて…」と記している。選手たちは、屈辱の完敗の陰で、まさしくその「目標」を見据えたのである。

 4年後、米レークプラシッドで開かれた第3回の冬季オリンピックで、日本スキー界の努力と精進は早くも花開いた。クロスカントリー18km12位に入り、圧倒的な力を誇っていた北欧勢の一人を上回ってみせたのは栗谷川平五郎。1位とのタイム差は8分台という健闘だ。また、ジャンプでは安達五郎が8位に食い込んでみせた。66mを飛んで、優勝者がマークした69mに迫ったのは、まさに、先輩たちの反省を糧とした練習が実を結んだあかしだろう。

 世界との差に打ちのめされた冬季オリンピック初参加。だが、未知の大海原に小舟で漕ぎ出すがごとき先駆者の挑戦は、後に続く者たちに指針を示す役割をしっかりと果たしたのだった。

※編集上の都合により引用文の一部に原本とは異なる表記を採用しています。

*1 シャンツェ(Schanze):独語でスキーのジャンプ台のことを指す。発祥の地ノルウェー語ではバッケン(bakken) 。ジャンプ台記録をバッケンレコードと呼称するのはノルウェー語に由来する。

*2 サッツ(Satz):ジャンプ競技で最も重要なジャンプ直前の踏み切り動作を表す独語。英語ではtake off。

*3 ヒッコリー:クルミ科ペカン属に属する樹木。強靭な材質で、特に衝撃を吸収することからスキー板や体操のバー、農具やビリヤードのキュー、ドラムのスティックなどに使われる。

関連記事

スポーツ歴史の検証
  • 佐藤 次郎 スポーツジャーナリスト

    1950年横浜生まれ。中日新聞社に入社し、同東京本社(東京新聞)の社会部、特別報道部をへて運動部勤務。夏冬6 回のオリンピック、5 回の世界陸上選手権大会を現地取材。運動部長、編集委員兼論説委員を歴任。退社後はスポーツライター、ジャーナリストとして活動。日本オリンピック・アカデミー(JOA)正会員。ミズノ・スポーツライター賞、JRA馬事文化賞を受賞。著書に「東京五輪1964」(文春新書)「砂の王 メイセイオペラ」(新潮社)「義足ランナー 義肢装具士の奇跡の挑戦」(東京書籍)「オリンピックの輝き ここにしかない物語」(東京書籍)「1964年の東京パラリンピック」(紀伊国屋書店出版部)など。