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「スポーツ・フォー・オール」の理念を共有する国際機関や日本国外の組織との連携、国際会議での研究成果の発表などを行います。また、諸外国のスポーツ政策の比較、研究、情報収集に積極的に取り組んでいます。

『アジア競技大会、その歴史をみる』前編:アジア競技大会の誕生と政治の影響

2026.09.02

佐野 慎輔(笹川スポーツ財団 参与、上席特別研究員/産経新聞 客員論説委員)

 アジア競技大会は、4年に1度開催されるアジア最大の総合スポーツ大会、「アジア版オリンピック」と言い換えてもいい。1951年の第1回大会から1982年の第9回大会まではアジア競技連盟(AGF)、1986年第10回大会以降はアジア・オリンピック評議会(OCA)が主催。現在、OCAには45カ国・地域が加盟する。

 その歴史を紐解くと、この地域のさまざまな問題、課題を反映。とりわけ政治が色濃く影を落としていることがわかる(前編・後編)。

『アジア競技大会、その歴史をみる』前編:アジア競技大会の誕生と政治の影響

1.日本とは無縁だった創設のころ

はじまりは1947年「アジア関係会議」

 アジア競技大会発足のきっかけは1947年3月、後にインドの初代首相となる独立運動の指導者ジャワハルラール・ネルーが主唱、ニューデリーで開催されたアジア関係会議である。会議では第二次世界大戦でこの地域がうけた影響への対応として、「自由のための国民運動」や「人種問題」、経済活性化のための「農業復興と産業開発」、さらに「文化的な諸問題」「女性の地位向上」など多岐にわたる事案が話し合われた。中央アジアのカザフスタンやウズベキスタンといった当時のソビエト連邦(ソ連:現ロシア)構成国やアフリカからエジプト、さらにはパレスチナ・ユダヤ人代表団ら28カ国・地域の代表が参加したが、日本は招待されていない。

 その各国・地域の代表たちにオリンピックを倣ったアジア競技大会およびアジア競技連盟創設構想を説いてまわる男がいた。英国植民地時代から国際オリンピック委員会(IOC)委員を務めるインドアマチュア陸上競技連盟(AAFI)会長のグル・ダット・ソンディである。1913年から34年まで日本と中国、フィリピンとの間で開催されていた極東選手権競技大会および1934年にニューデリーで開いたスエズ湾以東、シンガポール以西の国々を対象とした西アジア競技大会が発想の源流にあった。

 構想は、後ろ盾を想定していたインドオリンピック委員会(IOA)の心変わりで頓挫しかけたが、ソンディはIOAの同意を必要としないアジア陸上競技選手権大会に焦点を変更。1948年8月、オリンピック開催中のロンドンで会議を開いた。参加は招いた13カ国中、ビルマ(現ミャンマー)、フィリピン、韓国、中華民国(台湾)、セイロン(現スリランカ)およびインドの6カ国にとどまったが、以下2点を提案している。

  1. 1949年2月にニューデリーでアジア陸上競技選手権開催
  2. IOCをモデルとするアジア競技連盟の設立

 および将来的なオリンピック競技大会中間年でのアジア競技大会の開催 この提案をフィリピンアマチュア陸上競技連盟(PAAF)創設メンバーでIOC委員でもあったホルヘ・B・バルガスが強く支持、修正を加えて合意された。

「アジア競技大会の父」ソンディ

第1回アジア競技大会(1951/ニューデリー)開会式

第1回アジア競技大会 開会式(1951/ニューデリー)(写真:フォート・キシモト)

 合意した1949年2月のアジア陸上競技選手権は、アジアの不安定な情勢と参加国・地域の経済難を理由に開催が見送られた。しかし2月12-13日、デリーにおいてアジアスポーツの未来を拓くための会議は開催された。参加はインド、フィリピン、ビルマ、セイロンに加え、インドネシア、ネパール、パキスタン、タイ、アフガニスタンの9カ国。会議を主催したIOA会長ヤダヴィンドラ・シンが「スポーツの場を通してアジア諸国の若者を集め、健康の増進をはかるとともに各国の間の友好と理解を促進することにある」と連盟創設の目的を述べ、ソンディが規約草案を示した。

 会議では規約草案を検討、幾度かの修正を経て合意。名称も英語圏では陸上競技のみを、米語圏ではスポーツ全般をさす「Athletic」のもつ意味の曖昧さをさけるため、当初想定していた「アジアアマチュア陸上競技連盟(Asian Amateur Athletic Federation)」という名称を「アジア競技大会連盟(Asian Games Federation)」に修正、13日の会議において全会一致で創設が決まった。インド、フィリピン、セイロン、パキスタン、アフガニスタンの5カ国はすぐに署名、最初の加盟国となった。

 会議は初代AGF会長にシン、副会長にバルガスを選び、1950年にニューデリーで第1回アジア競技大会、1954年にマニラで第2回大会を開催することを決めた。また必須競技を陸上、水泳・飛込みに芸術競技と定め、ソンディがデザインし提案した連盟のモットー「Ever Onward(限りなき前進)」、および白い背景にオレンジ色の「Full Sun(完全な太陽)」をモチーフとしたエンブレムも採択された。

 その後、第1回大会は施設の整備、欧州に発注した用具の調達などが進まず、1951年に延期されたものの、アジアのスポーツに画期的な連盟と大会が生まれた。1949年2月、デリーで開催された会議はまさにアジアスポーツの未来を拓く重要なものであった。そしてソンディはその功績から「アジア大会の父」と称された。

 日本はこの会議つまりアジア競技大会、連盟創設には一切、関わってはいない。先の大戦の影が落ちていたとはいえ、残念なことであった。

2.政治的な危機の到来と日本の立ち位置

アジアより世界を意識した日本

第1回アジア競技大会 開会式(1951/ニューデリー)(写真:フォート・キシモト)

第1回アジア競技大会 開会式(1951/ニューデリー)(写真:フォート・キシモト)

 インドの主導、フィリピンの協力でアジア競技大会は動き始めた。1952年ヘルシンキオリンピックで国際スポーツの舞台に復帰した日本は第1回大会から積極的に参加し、実施57種目中24種目で金メダルを獲得、参加11カ国で最高の成績を収めた。第2回大会も77種目中金メダル38個と圧倒的な強さをみせつけた。

 もとより戦前からアジアのスポーツ大国であった日本が、戦後の空白期があったとはいえ、好成績を残すのはある意味、当然の帰結である。そうして勢いのまま1958年第3回大会を東京で開く。日本にとって、大きな意味を持つ大会であった。それはアジアにおける存在感を示すというよりも、「オリンピック」にいかに結実させるかという意識にほかならない。視線はあくまで「世界」を向いていた。

 戦火の拡大で1940年東京大会の開催権を返上した日本は、戦後、再びオリンピックの東京招致に動き出していた。1955年IOCパリ総会で1960年大会をローマに競り負け、1964年大会招致は悲願となった。開催都市決定は1959年5月のIOCミュンヘン総会。その前年のアジア競技大会は何としても成功させ、日本の組織力、大会運営能力、良好な施設環境、さらに競技力を世界に示さなければならなかった。

 結果はよく知られている通り、当時、「史上最高の」と形容された1964年東京オリンピックとして華やかな成功を収める。1958年アジア競技大会の果たした役割は大きかった。

政治に揺れるジャカルタ

 東京オリンピックの準備が進んでいたころ、アジア競技大会は初めて政治の季節を迎えていた。1962年ジャカルタで開催された第4回大会である。

 開催国インドネシア政府は開会直前になっても台湾とイスラエル選手団にIDカードを発行せず、事実上、参加を拒否した。オランダからの独立の英雄で初代大統領のスカルノが政治的、宗教的な理由で関係を深めていた中華人民共和国(中国)およびアラブ諸国からの要請があった。そしてスカルノが反植民地主義、反米国の立場をとっていたことから殊更、台湾とイスラエルを“敵視”していたことが理由とされる。

 これに対し、国際陸上競技連盟(IAAF、現世界陸上連盟=WA)は参加資格を持つ国を故意に排除したことで正式な大会と認めないと警告。国際ウエイトリフティング連盟(IWF)もインドネシアの東京オリンピック出場停止とアジア競技大会での競技実施の中止を決めた。さらにIOCはインドネシアオリンピック委員会(KOI)を資格停止処分にすると通告したのである。

 強硬なIOCの姿勢に各国・地域が右往左往するなか、日本選手団は熟慮の末、レスリングを除いて参加を決めた。しかし混乱ぶりを批判された日本体育協会(日体協、現日本スポーツ協会)会長津島寿一、東京招致の立役者で日本オリンピック委員会(JOC)総務主事の田畑政治は役職を引責辞任。やり手の田畑を抑え込もうとした政治家の暗躍があったとされる。準備を進める組織委員会に動揺を与え、さらにインドネシアへのIOCの制裁は東京オリンピック開幕直前の帰国という禍根を残すことになった。

スカルノの反発とアジアスポーツ分裂の危機

 制裁に反発したスカルノは、IOCとは別の「第三世界」による新たな国際競技大会創設を宣言。台湾問題でIOCを脱退していた中国などの協力を得て1963年11月、ジャカルタで「新興国スポーツ大会(GANEFO=The Games of the New Emerging Forces)」を開催した。これに対しIOCをはじめ、IAAFや国際水泳連盟(FINA)など各国際連盟は、GANEFO参加選手のオリンピック参加資格の剥奪を通告したが、中国やソ連、北朝鮮など51カ国が参加、アジアのスポーツ界は分裂寸前の状況となった。

 ちなみにGANEFO参加国には日本の名もある。日体協と傘下のJOCは1963年9月に派遣中止を決定していたが、インドネシアとの関係悪化を危ぶむ右翼陣営と大会を支持する日本共産党など左翼陣営が相乗りする形で選手団を編成、有志として参加したのだった。ただしトップ選手は不在、東京オリンピックへの影響はなかった。

 GANEFOは1965年のスカルノ失脚も手伝い、1966年にカンボジアのプノンペンで第2回大会を開催したものの、その後は自然消滅の道をたどる。とりあえず、分裂の危機は収まった。

 そうしたなかGANEFOで国際スポーツ大会に登場した中国は、「中国招請、台湾追放」という1971年の国連決議をうけたAGFの誘いで1974年テヘラン大会からアジア競技大会に参加。いきなり日本に迫る成績を残し、アジアにおける覇権を確立していく。ついに1982年第9回ニューデリー大会で、第1回大会以来首位に君臨してきた日本に代わってメダル獲得数トップに立ち、以降の大会で他を圧し続けている。

 そして中国の参加以降、アジア競技大会でも「2つの中国」が常に問題化、さらに政治色が強く現れるようになった

▸後編へつづく

  • 佐野 慎輔 佐野 慎輔 Shinsuke Sano 笹川スポーツ財団 参与、上席特別研究員/産経新聞 客員論説委員 早稲田大学卒、報知新聞社を経て産経新聞社入社。産経新聞シドニー支局長、外信部次長、編集局次長兼運動部長、サンケイスポーツ代表、産経新聞社取締役などを歴任。スポーツ記者を30年間以上経験し、野球とオリンピックを各15年間担当。5回のオリンピック取材の経験を持つ。立教大学、早稲田大学、尚美学園大学で、スポーツメディア論、スポーツ政策およびオリンピック史を中心に教鞭をとってきた。笹川スポーツ財団 理事を5期10年務める。日本スポーツフェアネス推進機構体制審議委員、B&G財団理事、日本モーターボート競走会評議員等。 近著に、『嘉納治五郎』『金栗四三』『中村裕』『田畑政治』(以上、小峰書店)、『日本オリンピック略史』(出版文化社)など。最近の共著に、「スポーツと地方創生」「スポーツ・エキセレンス」「スタジアムとアリーナのマネジメント」(以上、創文企画)、「オリンピック・パラリンピック残しておきたい物語」「オリンピック・パラリンピック歴史を刻んだ人々」(笹川スポーツ財団)、「日本のラグビーを支えた人々」(新紀元社)など